「正しい政策」がないならどうすべきか ギャンブルに関する内容の備忘録
第二章ギャンブル
2000年の初めにおいてインターネットがギャンブルのあり方を大きく変えようとしていたのに、適切な規制が無かった。
インターネット上の業者がイギリスの賭博税を回避するために税率の低い地域に移転し、より競争力があり利益の上がるサービスを提供するようになる
「ギャンブル制度再検討委員会」で対処すべきであった問題
①インターネットでのギャンブルへの対処
②政府の創設した国営宝くじが、他の業者に対して課したルールを自ら守っていないという疑いの対処
⇒商業的なギャンブル業者は広告を打てないのに、宝くじにはそのような規制がなかった
③許可当局はカジノを開設しようとする申請者に理由の説明なしで、また抗弁の機会を与えることなく申請を却下することができたが、このやり方は人権に関する法律と合致するのかという問題
「賭け事をする人は時間を無駄にしている、という反対論には道徳的あるいはおそらく美的な判断によるものである。あいにく、午後の時間を賭け店で過ごそうなどという考えに魅力を感じる人などいない。しかし、賭け店に通う人は自部なりに楽しみを得る方法を選んだのであり、我々は自由な社会において、庭を造ったり、子どもたちに本を読み聞かせたり、健康的なアウトドア・スポーツをしたりするほうがよい、とほかの人が考えているからという理由だけで、彼らが賭け事をするのを妨げることは間違いであると考える」(ギャンブルに関する王立委員会(ロスチャイルド委員会))
⇒政権を失った労働党政権によって委嘱されたものであり、新たに発足したサッチャーの保守党政権はこれに何の関心も払わなかったためこの報告書は無視された。
イギリス人はギャンブルに対してきわめて寛大。イギリスは子どものギャンブルが合法化されているきわめて数少ない国の1つ。(ただし、少額の賭け金と賞金で行われ、スロットマシーン、メダル落とし、クレーンゲームに限られる)
子どものギャンブル論争
擁護派:子どものギャンブルを禁止することは、イギリス流の海辺での休日を壊すことであり、現在のギャンブルはまったく無害な「ちょっとした楽しみにスパイス」を加えるものにすぎない
反対派:少額の賭け金と賞金によって、親の監督下に行われる子どものギャンブルを認めることは、食事の際に水で薄めたワインを子どもが飲むことを認める負担素を起源とされる習慣のようなものだ。
どちらの行いも大人としての責任ある行動を身につけさせるものだといわれるが、ギャンブルについてはそれを示す明確な確証はない。かつて家族にギャンブルを勧められたという経験はギャンブルに関する問題を引き起こすことになるリスク因子の1つでもある。
ギャンブルの倫理性についての論点
①ギャンブルは悪かどうか
②ギャンブルで利益を得ることは悪かどうか
③人にギャンブルを勧めるのは悪かどうか
①ギャンブルは悪かどうか
ギャンブルが単純に不道徳であるという理屈はあり得る。さらに国家には人々が不道徳な行為をするのを止める義務があると付け加える人もいる。
ギャンブルは悪であるにしても少なくとも他人に害悪が及ばない限りは国家は個人の道徳に干渉すべきではないと考えることもできる。
全く逆に、国家は人々が道徳的に悪い行為をするのを止めるべきだが、ギャンブルは悪でもないという立場もある。
第一の議論(道徳的に悪論)
多くの宗教はギャンブルを否定的に見ている
イスラム教:働かなくても金持ちになれることへの誘惑 というギャンブルのもつ基本的な誘惑が間違っている(利子つきの金貸しを禁止する根拠にもなっている)
コーランが述べるにはギャンブルは人々の間に対立をもたらし、祈りを忘れさせる
⇒ギャンブルがそれ自体として悪なのか、あるいはその結果についてのみ悪なのかは不明
リベラルな政治哲学の基本的な前提
政府は、特定の行動様式の道徳性に関する評価に基づいて鑑賞してはならない
国家は競合する善の諸構想に対して「中立的」でなければならない
国家は他人に危害を加えない限り、いかなる人の行動も禁止することはできない。
リベラルな国家はある行為がある人々によって、あるいは多数派によってさえ道徳的に否定されているからという理由だけで、ある行為を禁止することはできない
「文明社会のいかなる成員に対しても、その意志に反して、権力が正当に行使される唯一の目的は、他人に危害が及ぶのを防ぐことである」(ミル)
⇒ミルは国家にはある人が他人に及ぼすかもしれない危害の全てを防止する義務があると論じたわけではない。少なくともある人が他人に危害を及ぼしたり危険を与えたりする場合には、その問題は国家の関心事になると論じた。
ある行為が他人に影響を及ぼさない、「完全に自己にのみ関わる」なら、国家は介入してはならない。
自分の行動が自分自身にのみ関わるなら、それは国家とは無関係だ・
リベラルな立場によれば、もしある人のギャンブルが他人に危害を与えないならば、国家にはそれを禁止する権利はない
⇒これを受け入れたからといってギャンブルが完全に野放しにされていいということにはならない。
ギャンブルに課税したり、生活妨害を防ぐために一定区域にのみに開設を制限したり、営業時間を規制したりすることはできる。
ギャンブルを警告するポスター運動の展開、ギャンブル業者の宣伝権利の拒否、あるいは芸術音楽などの望ましいと考える活動の助成など、完全に何かを禁止したり要求はしなくても、ある行動を奨励し、ある行動を避けさせるようにしている
⇒こうした政策は危害を与えないあらゆる形の行動を認めるという点ではリベラリズムの要素をもちながら、反リベラリズムの要素ももっている。
リベラル派の主張:政府は将来の選択肢を多く残しておくために「文化保存」活動を行わなければならない。美術、音楽、文学といった活動を奨励し、将来の世代もそれに参加し享受できるようにすべきだ。
第二の議論(ギャンブラーへの危害論)
ギャンブルはギャンブラー自身に危害を与える。またギャンブルは他人、とくに家族に危害を与え、社会全体にさえも危害を与えうる
ギャンブルには中毒性があり、負け額を取り返そうと虚偽の理由をつけて借金をしたり、嘘をついたり、詐欺や盗みを犯したりするかもしれない
「ギャンブルが人間の性格を完全に破綻させるプロセスは二段階ある。第一に、賭け事はばくち打ちを、犯罪への誘惑が最も強くなるような不可避的状況に徐々にではなく突然に陥らせる。第二に、彼の行いには定見がなくなり、それによってあらゆる良き習慣が完全に根絶やしになり、その代わりに多くの悪しき習慣が植えつけられる」(ミル)
ギャンブル依存症患者は下降線をたどって仕事、家庭、家族を失うおそれがある。
ギャンブルは人々の生活を破綻させる危険性をもっている。
⇒この危険性論は、ギャンブルはそれ自体として道徳的に悪という議論とは全く異なる。
ギャンブルはそれ自体としては道徳的に悪ではないが、ギャンブラーmにきわめて破滅的な結果をもたらすことは往々にしてある。
つまりギャンブルは道徳的に悪であるかどうかとは無関係に有害である。ゆえに製粉介入は認められる、と主張される
これに対する有力な反論
根本的なリベラルな諸前提と対立する
ミルの公式見解:リベラリズムはパターナリズムとして知られるものは認めない。
パターナリズム:ある人が自分自身に危害を与えることを防ぐために政府などが介入すること(例:車に乗る際のシートベルト、ヘルメットの着用要求、禁煙。エイズに関する理解の向上、健康啓発活動)
しかし、それでもギャンブラーすべてが中毒になり、最終的に人生を台無しにするのだとすれば、ギャンブルは禁止または厳しく制限されるべきだというパターナリスティックな議論は極めて明快⇒政府の介入を正当化できる
しかし実際には、大多数の人は依存症的ギャンブラーではない。
⇒大多数の人々の楽しみは少数の人々の危害、あるいは危害のおそれとどう両立されるべきか。
ミルのリベラリズムを別の原理で補完する必要性
別の原理:少なくとも危害が本人の健康、安全性、経済的利益に及ぶ場合には、ある人が自分自身に危害を加えるのを政府が介入して止めることを認める原理。
第三の議論()
政府にとっての関心事は個人が自らに対して与える危害ではなく、他人に対して与える危害だ。
全ての時間とお金をギャンブルに費やす人は家族を無視し、家族や他人に窃盗を働き、だましさえするかもしれない。また子どもの養育を放棄するかもしれない。
さらにギャンブルによって困窮した人は国庫の負担となる。
⇒ギャンブル依存者は家族を傷つけ、納税者に負担をかける。
しかし、ギャンブルが他人にとって危険になると認めたとしても、ギャンブルを禁止すべきだということにはならない。もし、ギャンブルが禁止されるのであれば、自動車の運転も禁止されなければならない。
リスクのある行為を禁止すべきだという議論の際に考慮されるべき2つの要因
①危害の可能性と実際の危害の双方の観点からみてどれほど危険なのか
②それを禁止すれば、代わりに何が禁止されるのか
ミルの自由原理:ギャンブルに対する規制はすべて否定されることになる
⇒今日の政策的議論のなかでは受け入れられない立場。ミル自身もこの立場を直ちに否定
ギャンブルは容認されるが、それは依存症の習慣が生ずる可能性を減らすような条件の下でなければならない。
ギャンブルの機会を増やすとギャンブル依存症が増えるわけではない
1961年に賭博方が改正されたのはそれに効果が無かったから
⇒人々はギャンブルを行っていただけではなく、ギャンブルを禁止する法律を破ってもいた。⇒一般的な遵法精神が損なわれていく可能性
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房