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戦争と革命の世界史 第四章ヨーロッパ覇権の崩壊についての備忘録

 

第四章 ヨーロッパ覇権の崩壊

 

19世紀、中近東ではオスマン帝国が、インドではムガール帝国が、中国では清朝が一斉に衰退期に入り、白人列強の隷属化に置かれる

日本:ヨーロッパからもっとも遠く、そして貧しかった⇒鶏肋のようなもの

明治維新を成し遂げる猶予が与えられる

 

中国:義和団の乱を最後の抵抗として半植民地化が完成

ロマノフ朝ロシア帝国が日本を狙い始める

当時ロシアは、歳入は日本の8倍、陸軍は10倍、海軍では3倍の開き

伊藤博文を中心とした避戦派は必死に外交的解決を図ろうとするが、まるで相手にされずついに開戦(日露戦争)

 

仁川沖海戦鴨緑江の戦い、南山の戦い、遼陽の戦いと日本軍の連戦連勝

旅順の攻防戦という激戦を挟んで、黄海海戦日本海海戦と連勝、奉天会戦で最終的勝利を得る

幸運と神助と天祐に恵まれた

19世紀の末から20世紀初頭のアジアでは絶望感・劣等感が蔓延していた

日露戦争を機にアジア毛の人々が自信を取り戻す

 

 

ロシア革命

アメリカとソ連二つの超大国はどちらも人工的につくられた特殊な国家

ソ連を生んだ革命がロシア革命

 

19世紀後半、第二次産業革命(電気・ガス・石油などを主なエネルギー源とし、内燃機関・モーターなどを主な駆動機関とする技術革新)が起こる。

産業革命は社会に莫大な富をもたらしたが、それを独占したのは資本家ばかりで貧富の差は拡大

社会主義が発達

 

当初の幼稚な社会主義を空想的だと批判したのがカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス

科学的社会主義が唱えられ資本論が著される

当時のロシア:ヨーロッパでもっとも遅れた国 絶対主義が健在で皇帝が行政・立法・司法・軍事において絶対的権力を誇り、国民には基本的人権も自由も財産権も保証されていない状況

 

マルクスの理論はイギリス経済学を基盤として構築されていたためロシア経済に当てはまらず

⇒無理やり当てはめようとした結果、メンシェヴィズム、レーニニズム、トロツキニズムなどいびつな社会主義が誕生してしまう

 

マルクス社会主義の建設のために二段階で革命を乗り越える必要があると説く

ブルジョワ民主主義革命を起こし、絶対主義体制を倒す

②それから3-4世代かけてブルジョワ民主主義政権を腐敗させる

プロレタリアート社会主義革命をおこし、腐敗した民主主義政権を倒して社会主義政権を打ち建てる

またマルクス唯物史観を基盤としていた

唯物史観:歴史とは形而上学的・幾何学的・機械的に展開するのであって人間の意識・感情・願望というものは全く関係ないということを前提とした歴史観

 

ユーリー・マルトフら率いるメンシェヴィキは二段階革命論を実現するためまずはブルジョワ民主主義革命を起こすことを当面の目標に

⇒革命を推進するための資本家が全く育っていなかった

メンシェヴィキたちは労資同盟を提唱

⇒レーニンはこれを批判「労働者と資本家は不倶戴天の敵同士」。労農同盟によって革命を達成するべきであると主張

トロツキーはレーニンの労農同盟もマルトフの労資同盟も否定し、労働者による単独革命を主張

しかし、労働者単独革命ではブルジョワ民主主義革命ではなくプロレタリアート社会主義革命になってしまう

トロツキーマルクスの理論を否定。民主主義革命を経ず、いきなりプロレタリアート社会主義革命を起こそうとする

 

ロシアの革命機運が蔓延する中で勃発したのが日露戦争

⇒蔵相セルヴィ・ヴィッテは開戦に反対していたが、内相ヴァスチェスラフ・プレーヴェは革命機運を鎮静化するためには小さな戦争をするのが良いと開戦

⇒プレーヴェの予想に反して戦争は大規模化、国家財政は悪化し、連戦連敗の様子に革命機運は逆に高まることに。旅順要塞の陥落の知らせを受けついに国民の不満が爆発

 

帝都ペテルブルクでのデモで軍が発砲し大惨事に(血の日曜日事件)、爆弾テロ、水平反乱(ポチョムキン号)、ゼネストへと発展し、革命化。(ロシア第一革命)

ポーツマス条約を成立させて帰国したヴィッテが皇帝ニコライ二世を説得して十月宣言を出させたことにより収束に向かう

十月宣言の内容

①信仰・言論・集会・結社の自由

②国会の創設を約束

③広範な選挙権を与える

⇒マルトフを中心としたメンシェヴィキは満足し革命から離脱

⇒レーニンを中心とするボリシェヴィキは反発して武装蜂起したが失敗。レーニンは亡命し、革命は鎮静化

 

血の日曜日事件をきっかけにロシア人民は皇帝への盲愛・盲従・盲信をやめ帝室から離れるように

⇒危機感を覚えたヴィッテはニコライ二世に改革を提案するが、自身の置かれた立場や深刻さを自覚できなかったニコライ二世は改革に嫌悪感を示し、ヴィッテを更迭する

⇒ヴィッテ失脚後、ストリピンも改革に着手するが手遅れ、暗殺される

⇒ストリピンの死後、ラスプーチンが登場。プラシーボ効果を利用した手品を使用して皇太子アレクセイの病を改善、皇后アレクサンドラに取り入る

⇒皇帝夫妻はラスプーチンの言いなりに。政治は紊乱していく

 

WWIが勃発。前線では遅れた装備に兵站の破綻で「弾薬なし、外套なし、食糧なし」の状態が慢性化。ロシア兵は次々とドイツに降参し捕虜になった

後方では、戦前から慢性的な食糧不足に苦しめられていたが、参戦により産業が軍事産業に切り替えられ、食料は前線へ⇒都市部では危機的な食糧不足、国民生活は破綻

 

ロシア革命は大きく第一革命(1905年)と第二革命(1917年)にわかれ、第二革命は二月革命(3月)と十月革命(11月)の二段階に分かれる

1917年3月帝都ペテログラードで「パンよこせ」デモが起きる

その日のうちに8万人、翌日には16万人、さらにその翌日には24万人(帝都の3分の2の労働者)が参加

⇒ニコライ二世は事の重大さが理解できず、軍をもっての鎮圧を試みるが、軍隊まで革命側に合流

⇒事の深刻さを悟った国会議長ロジャンコは皇帝ニコライ二世に「帝都は無政府状態なり。即刻責任内閣を施工する必要あり。一刻の遅延は破滅に通ずると確信す」と連絡

⇒ニコライ二世は放置。的確な対応をせず

メンシェヴィキ指導の下「ソヴィエト(評議会)」が結成され、革命は成功裡におわる

 

二月革命マルクス理論のブルジョワ民主主義革命に該当。次の社会主義革命までは100年あるとメンシェヴィキは満足し、革命を終わらせようとするが、スイスに亡命していたレーニンが帰国し四月テーゼを発表

⇒革命を終わらせず、このまま社会主義革命まで突き進めるべきと主張

⇒この主張はいままでのレーニンの主張と矛盾。この発言に政敵のメンシェヴィキからも同志のボリシェヴィキからも批判が殺到

⇒孤立したレーニンは政敵でったトロツキーと手を組み革命続行を主張し続ける

 

二月革命によって生まれた臨時政府は戦争続行を表明、市民の不満が募る

戦争の即時終結を主張するレーニンに支持が集まり十月革命が勃発

臨時政府は一夜にして崩壊し、レーニンはただちに新政府(人民委員会議)をつくり、平和に関する布告と土地に関する布告を発し、ブレストリトフスク条約をむすぶことでWWIから手を引き憲法制定会議など国づくりに邁進

⇒こうして生まれたソヴィエト政権は以後74年間ロシアを支配し、歴史に絶大な影響を与えるように

対ソ干渉戦争

生まれたばかりのソヴィエト政権は脆弱で、「白軍(ビェーラヤ・アールミヤ)」と称する旧帝国軍を中心とした反乱が各地で相次ぐ

南のウクライナからデニキン将軍

東のオムスクからコルチャック将軍

南東のウラルからドウトフ将軍

北のアルハンゲリスクからミレル将軍

西のエストニアからユデーニチ将軍

とまさに四面楚歌

100日天下となる公算が高かった

 

世界初の社会主義国家の建設は、資本主義国家群を疑心暗鬼にさせる

永久革命論を根幹とするトロツキニズムを支持するレーニン

⇒資本主義国家に社会主義革命が輸出されるのではないかという懸念。

またイギリスは中近東での経済利権を脅かされることを懸念、フランスはロマノフ朝に融資していた莫大な資本が無効になることを恐れていたという経済的側面、さらには革命政権を倒すことで東部戦線を復帰させたいという軍事的側面もあり複合的な理由があった

⇒白軍による反革命運動を支援する動きが生まれる(対ソ干渉戦争)

1918年3月、イギリスとフランスがミレル将軍を支援し北海から上陸。

6月、アメリカも参戦。

8月、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、中国などがセミョーノフ将軍を支援してシベリア出兵を始める

1919年2月、ポーランドも参戦(ソヴィエト・ポーランド戦争)

トロツキー率いる赤軍は粘り強く戦う

 

1918年11月ドイツ降伏、WWI終結

⇒連合国側に厭戦ムードが蔓延

オデッサ停泊中のフランス軍艦で反戦暴動が起こり、連合国は順次撤退

⇒対ソ干渉戦争は急速にしぼみ、1920年までには収束

 

対ソ干渉戦争のおかげでソ連国内が結束

ソ連にとって、世界でソ連以外は資本主義国、すなわち敵国という考えから、自国の周りに衛星国家を作って防壁とすることを国是とするようになる。

もし対ソ干渉戦争がなければソ連は存続していなかったかもしれない

 

引用参考文献

神野正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房