戦争と革命の世界史 第七章2つの思想潮流 についての備忘録
第七章 二つの思想潮流
当時のドイツ「神聖ローマ帝国」と呼ばれ、現在のオーストリア・ベネルクス・チェコ・北イタリアまでを包括した大帝国
ハプスブルク家が帝室として君臨
北ドイツを中心としたプロテスタントが「連合(ユニオン)」を、南ドイツを中心としたカトリックが「連盟(リガ)」を結成し対立していた
⇒帝室はカトリックなのでリガ寄りであったが、プロテスタントに対して宥和策をとるか強硬策をとるか意見が分かれていた
⇒しばらくは宥和策がとられ、プロテスタント地域には勅許状を与え。信教の自由を保障することで安定を図っていた
1617年 フェルディナント二世がボヘミア王に即位
プロテスタントがプラハ王宮に訪れた際、皇帝顧問官の対応に憤慨、彼らを王宮の窓から投げ落とす
⇒ボヘミア住人はウニオン盟主のプファルツ選帝侯をボヘミア王に迎え入れ、フェルディナント二世はリガを味方につけ両者は激突
⇒開戦当初は皇帝軍が優勢(ボヘミア・プファルツ戦争)であったが、却ってそれがデンマークの介入を招いてしまう(デンマーク戦争)
デンマークは新教国であったため、旧教勢力がこれ以上勢いづくことを抑えたかった、そしてこの混乱に乗じてドイツに利権を拡大しようとした
また、デンマークはイギリス・オランダ・フランスの支持と資金援助を受けていた
⇒デンマーク軍の介入により、帝国軍はたちまち劣勢に
⇒ヴァレンシュタイン傭兵部隊を雇い、バイエルン王国のティリ軍も味方につける
⇒再び形勢逆転、デンマークは大敗を喫す
戦後、フェルディナント二世はヴァレンシュタインと対立
⇒バルト海の覇権を狙っていたスウェーデン王のグスタフ二世がこれに乗じて軍事介入を図り、スウェーデン戦争に突入
グスタフ二世:「北方の獅子」と呼ばれるほど勇猛な王
グスタフ二世の親征軍によって帝国軍のティリ軍は敗走
⇒動揺したフェルディナント二世はヴァレンシュタインに軍事指揮権や和平交渉権、条約締結権や選帝侯位を与えるなどの好条件の下復帰を要請
⇒1632年 リュッツェンの戦いでヴァレンシュタイン軍とスウェーデン軍が激突
⇒地の利も兵力的にもヴァレンシュタインが有利であったが、実際にはスウェーデン軍の勝利
⇒しかしグスタフ二世が戦死してしまいスウェーデン軍の勢いは衰えていき、スウェーデン軍は撃退される
⇒ヴァレンシュタインは用済みとなり帝王に暗殺されてしまう
デンマーク・スウェーデン両国を経済的・軍事的バックアップをしていたフランスが直接介入を図ってくる(フランス・スウェーデン戦争)
帝国軍にはすでにティリ将軍もヴァレンタイン将軍もいなかったため、フランス優位のまま講和条約が結ばれる(ウェストファリア条約)
なぜヨーロッパの片隅で起こった小さな事件が、泥沼化し30年も続いたのか
⇒原因はヨーロッパ人の思想・価値観・行動様式にある
⇒どこかで小さな争いが起こるとおこぼれにあずかろうと利権に群がる民族的習性
二度とこのような戦禍が起こらないよう30年戦争後、初の国際会議を開催。ウェストファリア条約を定め、これを破る国には国際的に制裁を加えることで秩序を保とうとし始める(国際秩序の概念)⇒のちの国際連合の考えにつながる
アジアには存在しない概念⇒平素から秩序が保たれているため
1648年 ウェストファリア体制~
⇒1789年 フランス革命で崩壊。ナポレオン戦争に巻き込まれる
⇒1815年 ナポレオン戦争後、二番目の国際秩序ウィーン体制が築かれる
⇒1848年 フランスの二月革命で崩壊。ヨーロッパ全土は革命騒ぎに
⇒1890年 ビスマルク失脚により崩壊
⇒WWIへ驀進
⇒1919年 WWI後、ヴェルサイユ体制が築かれる
⇒1935年 WWIIで崩壊
⇒1945年 ヤルタ体制が築かれる
⇒1989年 マルタ会談によって終わりを迎える
⇒現在は国際秩序のない状態
すべての戦争・革命に生産革命によって生まれた価値観が反映されている
狩猟・漁ろう・採集⇒獲得経済
稲作など⇒生産経済
獲得経済から生産経済への切り替わりを生産革命と呼ぶ
⇒生産革命を可能としたのが新石器の発明
従来の旧石器(打製石器)から新石器(磨製石器)の発明は農耕を可能とする
西アジアなら麦、北米ならトウモロコシ、華北ならヒエ・アワ、長江周辺ならコメなど各地の気候に合った作物の栽培が可能に
獲得経済と生産経済では生産経済の方が比にならないほど手間と労力がかかるが、生産力も比にならないほど高い
⇒農業はつねに効率化・技術革新が要求され、畜力を利用し始める
⇒有蹄類(羊やヤギなど)の家畜化、牧畜という新たな職業の誕生
⇒牧畜の中から農耕社会から離れ、牧畜に適した地域へ移動していくものが現れる(遊牧民の登場)
農耕民と遊牧民は全く異なる価値観を持つように
⇒このことなる価値観が現在に至るまでのさまざまな戦争や革命、社会問題の奥底に
農耕民
定住と生産力の向上によって人口が増加、文明が高まる
土器・織布、城壁、高度な建築物など、生活は豊かになり便利になる
また農業は毎年同じ作業の繰り返しのため、命令一下で作業をさせ、収穫物を管理する効率的な方法へ
⇒社会全体の「和」が重んじられ、強権の王が生まれ、王の命令の下組織的に動かすための官僚組織、そしてそれを管理するための文字が生まれる
さらに農業は自然に逆らってはできないため、自然との調和を重んずる
移動生活のため、人口を増やし。文明を高めることが難しい
牧草地を育てる発想はなく、必要ないため官僚組織も文字も生まれない
ひとつの牧草地をめぐって他部族と衝突すれば戦う、勝者のみが生き残る
⇒武力のみに価値観を置く
敗北は部族全体を死か奴隷に貶めるため、重要な決定を王一人にゆだねられない
⇒王はあくまで議長的存在にすぎず、成年男子全員に発言権をみとめ、合議によって決定されるシステム
⇒民主制と権利の概念⇒派生的に契約の概念も生まれる
農耕社会に「専制的な王」がうまれ遊牧社会に「民主的な王」がうまれる
⇒その自然環境に適合したシステムであったからにすぎず優劣はない
ヨーロッパ人がアジアに侵略したとき、「民主主義は進んだ制度で、君主制は遅れた制度」という価値観をアジアに押し付けてしまう
遊牧民がヨーロッパにたどりつく
⇒ヨーロッパには牧草が無尽蔵にあり、獣も多かった
⇒それを狩って生活する狩猟民族へ
⇒肉食中心、生物の屠殺や解体が日常茶飯事に
⇒戦時や処刑方法において残忍な殺りくに抵抗を見せない理由の一端
農耕民族:調和を基礎とする価値観・文化
遊牧民族:征服を基礎とする価値観・文化
庭造りや医学にも表れている
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房