戦略・戦術
1.敵にとっての利益は味方にとって不利益であり、その反対の場合は利益と不利益もまた相反する。
2.敵の運動と企図に最大の注意を払い、兵の訓練に絶大の努力をしておけば、危険に陥る可能性は最小に、成功の公算は最大になる
3.部隊の士気が横溢し、軍紀も整い、戦意も盛んでなければ戦ってはならない。また勝利の疑いなしとの確信が得られるまでは戦うべきではない。
4.もし可能ならば剣によって敵を降すよりも、糧食の欠乏によって降伏に追い込む方を可とする。というのは運命は深慮遠望や勇気よりも勝利に影響するところ大だからである。
5.実行の時機が熟するまで、企図の秘匿に成功すれば、その分だけ勝利の見込みは増大する。
6.好機を発見したならば、これを最大に利用することが戦時においては何よりも重要である。
7.天性勇敢な人間は少ないが、教練と経験によって勇敢になる人々は多い。
8.士気横溢した軍隊よりも、軍紀と訓練の行き届いた軍隊の方が信頼が置ける。
9.敵兵が脱走して我に投降してくれば、多くの利益を得ることができる。ただし彼が忠実であることを証明した後のことであるが。敵にとっては兵の脱走は戦死よりも痛手である。もちろん脱走者が猜疑の眼で見られ、旧友からは憎まれることは当然ではある。10.軍隊を戦闘隊形に部署するには、現在通用している単列で横長よりも、縦長を深くして必要の際には前線を救援できるだけの予備隊を確保する方が得策である。
11.首将が我を知り、彼を知っているならば百戦しても殆くはない。
12.兵の資質は兵数に優り、地形の良否は兵の資質に優る。
13.不慮の突発事は軍に混乱を醸すが、あらかじめ熟知した事柄もしくは緩慢に発生する事柄はパニックを起こさない。したがって新たな敵と交戦する場合には、小あたりに斥候線を試み、敵の手並みを承知しておく必要がある。
14.退却する敵を追撃するに際して、隊伍を紊して闇雲に突進していけば、多くの場合、自己の壊滅を招き、せっかく得た勝利をも失うことになる。
15.食糧ならびに軍需品の充分な蓄積を行なうという配慮を怠った者は、敵の攻撃を一回も受けることなく滅亡に到る。
16.我が騎兵が敵の歩兵を圧倒し、また我が歩兵が敵の騎兵を圧倒しうるよう、適当の地形を選択しなければならない。
17.敵の間諜が昼間、宿営地に潜入したことを探知した場合は各人を各自の天幕に待機させるしか対処の手段はない。
18.敵が我が企図を察知したことを承知したならば、ただちに計画を変更しなければならない。計画に多数の人間が関わっているならば、断然実行するに際しては少数者のみに協議すべきである。
19.駐軍の間は士卒を畏怖と厳罰を以て良好なる軍紀を保たしめ、戦場にあっては希望と褒賞を以て希望を鼓舞すべきである。
20.良将は明白な必要に迫られたときか、大なる利益を得る見込みがない限り、みだりに交戦を行うことはない。
21.大なる注意を以て、敵が我が戦闘配備を探知しないよう努めなければならない。第一線は第二線に、これら2線は第三線に容易に収容できる配置が望ましい。
22.実戦に際して、一旦任務を受けた大隊に、別の任務に就くよう変更を命じることは禁物である。これは全軍の秩序を破り、混乱を来す虞れがあるからである。
23.予期せざる突発事を回避することは困難である。だが予見できる事柄は除去もしくは対処の手段がある。
24.兵員、武器、財貨、食糧は戦争中の資源である。とくに兵員と武器は重要である。この両者があれば、後の二者は入手が可能であるが、前二者は入手困難なのである。したがって武器を持たざる富者は良く武装した貧士の好餌となってしまう。
25.兵卒をして日常、柔弱で怠惰な生活を蛇蝎のごとく嫌悪する良習に慣れしめ、その衣食の贅沢、優美を賎しむ美風を馴致すべきである。
ロイドの作戦線の定理
1.攻撃を企図する前線の性質ならびに兵站倉庫の配置からして可能であるならば、最短かつ最も障害の少ない作戦線を選択しなければならない。
2.敵が我が側面すなわち我が作戦線を脅かすことのできない前進方向を選択するべきである。敵が我が軍の前進する右もしくは左の地域を占領しているならば、深く前進すればするほど、確実に我は敗北に近づいていく。というのは容易に兵站倉庫との間の背後連絡線を遮断されるからであり、容易に敵に包囲され殲滅されるだろうからである。
3.作戦線は最終の目標に向かっていなければならない。さもなければ十度が十度、見事に会戦に勝利を収めようとも、結果は虚しいからである。
ジュミニの基本原則
1.戦略的運動によって大兵力を自軍の連絡線を危険にさらすことなく、可能な限り敵の連絡線もしくは戦地に投入すること。
2.我が全力で敵の分力と戦うよう機動すること。
3.戦闘が行われるときには、戦術的運動によって大兵力を戦場の決勝地点もしくは前線の最も重要な地点に投入すること。
4.これらの大兵力は決勝地点にただ存在するだけではなくて、活発かつ一斉に戦闘に加入すること。
戦争と革命の世界史 第七章2つの思想潮流 についての備忘録
第七章 二つの思想潮流
当時のドイツ「神聖ローマ帝国」と呼ばれ、現在のオーストリア・ベネルクス・チェコ・北イタリアまでを包括した大帝国
ハプスブルク家が帝室として君臨
北ドイツを中心としたプロテスタントが「連合(ユニオン)」を、南ドイツを中心としたカトリックが「連盟(リガ)」を結成し対立していた
⇒帝室はカトリックなのでリガ寄りであったが、プロテスタントに対して宥和策をとるか強硬策をとるか意見が分かれていた
⇒しばらくは宥和策がとられ、プロテスタント地域には勅許状を与え。信教の自由を保障することで安定を図っていた
1617年 フェルディナント二世がボヘミア王に即位
プロテスタントがプラハ王宮に訪れた際、皇帝顧問官の対応に憤慨、彼らを王宮の窓から投げ落とす
⇒ボヘミア住人はウニオン盟主のプファルツ選帝侯をボヘミア王に迎え入れ、フェルディナント二世はリガを味方につけ両者は激突
⇒開戦当初は皇帝軍が優勢(ボヘミア・プファルツ戦争)であったが、却ってそれがデンマークの介入を招いてしまう(デンマーク戦争)
デンマークは新教国であったため、旧教勢力がこれ以上勢いづくことを抑えたかった、そしてこの混乱に乗じてドイツに利権を拡大しようとした
また、デンマークはイギリス・オランダ・フランスの支持と資金援助を受けていた
⇒デンマーク軍の介入により、帝国軍はたちまち劣勢に
⇒ヴァレンシュタイン傭兵部隊を雇い、バイエルン王国のティリ軍も味方につける
⇒再び形勢逆転、デンマークは大敗を喫す
戦後、フェルディナント二世はヴァレンシュタインと対立
⇒バルト海の覇権を狙っていたスウェーデン王のグスタフ二世がこれに乗じて軍事介入を図り、スウェーデン戦争に突入
グスタフ二世:「北方の獅子」と呼ばれるほど勇猛な王
グスタフ二世の親征軍によって帝国軍のティリ軍は敗走
⇒動揺したフェルディナント二世はヴァレンシュタインに軍事指揮権や和平交渉権、条約締結権や選帝侯位を与えるなどの好条件の下復帰を要請
⇒1632年 リュッツェンの戦いでヴァレンシュタイン軍とスウェーデン軍が激突
⇒地の利も兵力的にもヴァレンシュタインが有利であったが、実際にはスウェーデン軍の勝利
⇒しかしグスタフ二世が戦死してしまいスウェーデン軍の勢いは衰えていき、スウェーデン軍は撃退される
⇒ヴァレンシュタインは用済みとなり帝王に暗殺されてしまう
デンマーク・スウェーデン両国を経済的・軍事的バックアップをしていたフランスが直接介入を図ってくる(フランス・スウェーデン戦争)
帝国軍にはすでにティリ将軍もヴァレンタイン将軍もいなかったため、フランス優位のまま講和条約が結ばれる(ウェストファリア条約)
なぜヨーロッパの片隅で起こった小さな事件が、泥沼化し30年も続いたのか
⇒原因はヨーロッパ人の思想・価値観・行動様式にある
⇒どこかで小さな争いが起こるとおこぼれにあずかろうと利権に群がる民族的習性
二度とこのような戦禍が起こらないよう30年戦争後、初の国際会議を開催。ウェストファリア条約を定め、これを破る国には国際的に制裁を加えることで秩序を保とうとし始める(国際秩序の概念)⇒のちの国際連合の考えにつながる
アジアには存在しない概念⇒平素から秩序が保たれているため
1648年 ウェストファリア体制~
⇒1789年 フランス革命で崩壊。ナポレオン戦争に巻き込まれる
⇒1815年 ナポレオン戦争後、二番目の国際秩序ウィーン体制が築かれる
⇒1848年 フランスの二月革命で崩壊。ヨーロッパ全土は革命騒ぎに
⇒1890年 ビスマルク失脚により崩壊
⇒WWIへ驀進
⇒1919年 WWI後、ヴェルサイユ体制が築かれる
⇒1935年 WWIIで崩壊
⇒1945年 ヤルタ体制が築かれる
⇒1989年 マルタ会談によって終わりを迎える
⇒現在は国際秩序のない状態
すべての戦争・革命に生産革命によって生まれた価値観が反映されている
狩猟・漁ろう・採集⇒獲得経済
稲作など⇒生産経済
獲得経済から生産経済への切り替わりを生産革命と呼ぶ
⇒生産革命を可能としたのが新石器の発明
従来の旧石器(打製石器)から新石器(磨製石器)の発明は農耕を可能とする
西アジアなら麦、北米ならトウモロコシ、華北ならヒエ・アワ、長江周辺ならコメなど各地の気候に合った作物の栽培が可能に
獲得経済と生産経済では生産経済の方が比にならないほど手間と労力がかかるが、生産力も比にならないほど高い
⇒農業はつねに効率化・技術革新が要求され、畜力を利用し始める
⇒有蹄類(羊やヤギなど)の家畜化、牧畜という新たな職業の誕生
⇒牧畜の中から農耕社会から離れ、牧畜に適した地域へ移動していくものが現れる(遊牧民の登場)
農耕民と遊牧民は全く異なる価値観を持つように
⇒このことなる価値観が現在に至るまでのさまざまな戦争や革命、社会問題の奥底に
農耕民
定住と生産力の向上によって人口が増加、文明が高まる
土器・織布、城壁、高度な建築物など、生活は豊かになり便利になる
また農業は毎年同じ作業の繰り返しのため、命令一下で作業をさせ、収穫物を管理する効率的な方法へ
⇒社会全体の「和」が重んじられ、強権の王が生まれ、王の命令の下組織的に動かすための官僚組織、そしてそれを管理するための文字が生まれる
さらに農業は自然に逆らってはできないため、自然との調和を重んずる
移動生活のため、人口を増やし。文明を高めることが難しい
牧草地を育てる発想はなく、必要ないため官僚組織も文字も生まれない
ひとつの牧草地をめぐって他部族と衝突すれば戦う、勝者のみが生き残る
⇒武力のみに価値観を置く
敗北は部族全体を死か奴隷に貶めるため、重要な決定を王一人にゆだねられない
⇒王はあくまで議長的存在にすぎず、成年男子全員に発言権をみとめ、合議によって決定されるシステム
⇒民主制と権利の概念⇒派生的に契約の概念も生まれる
農耕社会に「専制的な王」がうまれ遊牧社会に「民主的な王」がうまれる
⇒その自然環境に適合したシステムであったからにすぎず優劣はない
ヨーロッパ人がアジアに侵略したとき、「民主主義は進んだ制度で、君主制は遅れた制度」という価値観をアジアに押し付けてしまう
遊牧民がヨーロッパにたどりつく
⇒ヨーロッパには牧草が無尽蔵にあり、獣も多かった
⇒それを狩って生活する狩猟民族へ
⇒肉食中心、生物の屠殺や解体が日常茶飯事に
⇒戦時や処刑方法において残忍な殺りくに抵抗を見せない理由の一端
農耕民族:調和を基礎とする価値観・文化
遊牧民族:征服を基礎とする価値観・文化
庭造りや医学にも表れている
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房
戦争と革命の世界史 第六章欧米の目覚め についての備忘録
ヨーロッパ
1770年代 産業に革命が起きる
当時のイギリス 綿織物業が盛ん
綿織物が棉花から製品になるまでの工程
①綿繰り:奴隷を使って棉花から繊維を取り出す作業
②紡績:糸車をつかって繊維を紡いで糸にし、棒に巻き付ける作業
③織布:織機をつかって紡績された糸を織って布にする作業
ジョン・ケイが緯糸を通すための織機の部品「杼」を改良して、ばね仕掛けで自動かつ一瞬で通すことができるようにした
⇒工程③が大幅に短縮、②の紡績が追い付かなくなる
アークライトが水力紡績機(経糸用)
クロンプトンがミュール紡績機(経緯兼用)を次々と発明
⇒紡績能力が織布能力を逆転、③が追い付かなくなる
⇒カートライトが力織機を発明
⇒①が追い付かなくなる
⇒ホイットニーが棉繰り機を発明
織物革命と蒸気機関の発明が結びつき、飛躍的に生産力が向上
⇒蒸気機関の生産を支えるため、製鉄技術、鉄道の開発などあらゆる産業分野に改革
⇒「第一次産業革命」
この時点の動力源は利用範囲が限られていたので、機関車や蒸気船のみ
19世紀後半
アメリカ・ドイツ
これまでの軽工業(繊維・雑貨など)を中心とした産業構造から、重化学工業(機械・金属・化学)を中心としたものへ代わる
石油を原料としたアスファルト・プラスチック・ナイロンなどの合成樹脂が生まれる
動力源:「重い石炭」をエネルギー源として「重い鉄」でできた「低い出力の蒸気機関」から「軽いガソリン・ガス・電気」をエネルギー源として「軽金属」でできた「高い出力の内燃機関」へ
⇒飛躍的にエネルギー効率が高まる。自動車の発明
電気やガソリン、化学製品を作るために石油が必需、また車のタイヤを作るためにはゴムが必需
また大量生産された産業革命製品を国内だけで消費することは不可能
⇒原料の輸入元をおさえる、また商品の輸出先の確保のために「植民地」が必要に
第二次産業革命とともに帝国主義という新しいイデオロギーが誕生
⇒天然資源(石油・ゴム・銅・錫・亜鉛・ニッケル・硝石など)の豊富な地域や購買力のある地域、つまり中国・インド・中東世界が狙われるように
アメリカ大陸
最後の氷期の後期にモンゴロイドからアジア大陸からベーリング地峡を乗り越えてアメリカ大陸に渡ってくる⇒「インディアン」
⇒氷期が終わるとベーリング地峡は海峡に、アメリカ大陸はほかの大陸と切り離され独自の文化を育む
⇒アメリカ大陸の存在をしった白人が植民を開始
インディアンに白人の宗教・文化・制度を押し付けつつ駆逐と暴虐のかぎりをつくすように
⇒インディアンの人口は激減、文明は崩壊
北米をイギリスとフランスが、中南米をスペインとポルトガルが支配
イギリスはフランスを北米から追い出して、北米を独占しようと試みる
⇒ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争。フレンチ&インディアン戦争と戦争を仕掛け、北米を独占することに成功
⇒度重なる戦争でイギリスの財政は破産寸前
⇒植民地に対して厳しい税金が課されるようになる
1764年 砂糖法(砂糖にかかる消費税)
1765年 印紙法(出版物にかかる税)
⇒植民地人は憤慨「代表なくして課税なし」をスローガンに不買運動を実施。
1767年 タウンゼント諸法(日用雑貨品にかかる消費税)
1773年 茶法(お茶にかかる消費税)
⇒植民地人の一部、「Sons of Liberty」と称する過激派が、ボストン港に停泊していた東インド会社の船に侵入、茶箱を海に投棄する(ボストン茶会事件)
⇒イギリス王ジョージ三世は憤慨、ボストン港を封鎖しマサチュセッツ州の自治を剥奪
⇒植民地側は「第一回大陸会議」を開催し善後策を話し合うも成果なく終わるが、とりあえずコンコードに武器弾薬の集積を始める
⇒情報が本国に漏れ、本国軍(ゲイジ将軍)が派兵され、植民地軍と交戦状態に(レキシントンの戦い)⇒死者8名、戦闘時間8分という小規模のもの
⇒コンコードの戦いでイギリスは惨敗、ボストン市に逃げ込むことに(ボストン包囲戦)
一年にわたる攻防戦の末、大陸軍がドーチェスター高地に砲台59門を設置
⇒気後れしたイギリス軍は撤退
ボストン包囲戦の最中にフィラデルフィアで「第二回大陸会議」が開催され、植民地軍改め大陸軍とし、独立宣言が採択される(7月4日アメリカ建国記念日)
1776年ボストン包囲戦で敗れ、1777年にサラトガの戦いで敗れた本国軍は1778年から南部で作戦展開を行い起死回生を狙う
⇒南部では本国軍(クリントン将軍)が優勢、ジョージアとサウスカロライナ全土を本国軍に制圧され逆転のチャンス
⇒将軍がコーンウォリス将軍になると劣勢に、本国軍はヨークタウンで降伏
1789年 フランスで174年ぶりに「三部会」が開催されようとしていた
もともと王朝の協賛組織にして諮問機関に過ぎなかった三部会
⇒次第に王権に反抗的になったため1615年三部会を停止
なぜ174年ぶりに三部会が開かれようとしているのか
⇒17世紀以来度重なる対外戦争が王朝財政を圧迫していたため
⇒これ以上第三身分(庶民)に増税するのは限界のため特権身分(第一身分の僧侶と第二身分の貴族)にも税負担をさせようと開かれた
三部会は開催前から議決方式をめぐって空転
⇒特権身分に有利な「身分別議決方式」と第三身分に有利な「議員別議決方式」で対立
第三身分の議員のひとりアベ・シェイエスは特権身分の合意が得られなくとも、議員別議決方式で採決することを宣言
「国民議会」と称して、「憲法を制定するまで決して解散しない」と宣誓する(球戯場の誓い)
⇒この動きに驚いた特権身分たちは武力弾圧の準備に入り蔵相ネッケルを罷免
⇒ネッケルは特権身分と第三身分の仲介役であった
⇒第三身分は激昂しバスティーユ牢獄襲撃事件(フランス革命の始まり)
翌月、国民議会派は「封建的特権廃止宣言」および「人権宣言」を発表
⇒自由・平等・国民主権・抵抗権・法的平等・三権分立などが歌われる
⇒ルイ16世は保守派貴族の言うがまま、宣言を却下、弾圧のために軍を招集。
⇒パリの民衆8000人がヴェルサイユ宮殿に押し寄せ(ヴェルサイユ行進)、王家は強制的にパリに連行
⇒ミラボーの死をきっかけに王家は逃亡を図る(ヴァレンヌ逃亡事件)も失敗
逃亡を知った国民は激怒、国王に対する信頼も雲散霧消
革命政府内に「王権重視のフィヤン派(富裕層支持)」と「王権無視のジャコバン派(貧困層支持)」の派閥を生む
国民議会は立法議会となる
フィヤン派は1791年憲法の制定をもってして事態の収拾を図ろうとするが、勢いを止められずオーストリアとの戦争にもつれ込む
⇒フランス軍は連戦連敗
⇒パリ市民はテュイルリー宮に殺到(八月十日事件)、国王はタンプル塔に幽閉され王権は停止
連戦連敗のフランス軍がヴァルミーの戦いで勝利
⇒立法議会は国民公会に改組
⇒国民公会の名において王政廃止を宣言。共和国宣言が発せられた。
⇒国王ルイ16世の処刑
自国にも革命が及ぶことを恐れ、ヨーロッパ主要国は大仏大同盟を結成、フランスは孤立
⇒国家的危機を乗り越えるには独裁政治をする必要あり(恐怖政治)
⇒革命裁判所や公安委員会の設置
⇒あらかじめ死刑が決まっているため、時間と費用と手間削減のためロベスピエールは予審を廃止、被告に弁護人や承認をつけることを禁止
⇒はじめは政敵であるジロンド派に対する粛清であったが、次第に同志のジャコバン派まで粛清し始め、最後には盟友のダントンまで粛清
⇒ロベスピエールは暴君として逮捕、処刑
⇒ナポレオンの登場
革命の中で掲げられた平等を押し進め、身分制度がなくなり「国民」という概念が生まれた
身分制度の廃止によって戦士階級がなくなり、戦争をするのは庶民階級に⇒「国民軍」の誕生
⇒常備軍では国民軍に勝てないことが明らかになってくる
⇒各国で国民軍の創設が急務に
⇒国民軍創設のためには国民をつくらなければならないが、国民は旧体制のなかからはうまれない
⇒支配者たちは自分たちの支配体制を護るために、自分たちの支配体制を壊さなければならないという矛盾を抱える
さらに国民が存在するためには、民族単位の国民国家の存在が必要
⇒統一運動が盛んに
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房
戦争と革命の世界史 第五章世界大戦の火種 についての備忘録
第五章 世界大戦の火種
ドイツ
17世紀初頭に起こった三十年戦争以来、分裂状態が続いていた
⇒19世紀 民族意識(ナショナリズム)の高揚とともに統一運動が盛んに
1815年 ブルッシェンシャフトのイエナ大学の学生運動
⇒触発されて統一運動や立憲運動が頻発
⇒1834年 関税同盟が結ばれる(経済統一の成功)
1848年 フランスで二月革命
⇒触発されて ウィーン三月革命、ベルリン三月革命、チェコ独立運動、ハンガリー独立運動、イタリア独立運動など革命の嵐
⇒平和的な話し合いでドイツ統一をと、フランクフルト国民会議も催されたが失敗に終わる
⇒プロシアを中心とする「上からの統一」が始まる
ビスマルク、鉄血演説を行い、武力をもってドイツを統一することを表明
⇒反発する議会を停止、本格的な統一政策に乗り出す
ドイツ統一のために障害となる国
北 グリュックスブルク朝デンマーク王国
(デンマークとドイツは永年にわたって領土問題を抱えている)
(小ドイツ主義と大ドイツ主義でドイツ統一の主導権争いをしていた)
西 ポナパルト朝フランス帝国
⇒この四国にとって、隣のドイツが統一され強大なドイツ帝国が生まれることは不利
1963年 ロシア領内のポーランド州で起こった一月蜂起(ポーランド独立運動)に援軍を送ってロシア皇帝アレクサンドル二世の歓心を買い、ロシアと中立条約を結ぶ
デンマークとの領土問題 シュレスウィヒ・ホルシュタインの両州をデンマークが併合宣言
この2州の住民はほとんどドイツ人。ドイツ統一のためには必ず手に入れなければならない土地であった
⇒しかし、プロシアがこの併合を認めず開戦すれば、デンマークはスウェーデンかフランスに援軍要請をすること必至⇒プロシアに勝ち目なし
⇒そこでビスマルクは「我々ドイツ人固有の領土をデンマークがかすめ取ろうとしている」などとオーストリアをけしかける
⇒ドイツ人という民族意識をくすぐることで関係の悪かったオーストリアを味方につけた
デンマークに味方すれば大国オーストリアと戦わなければならないと気後れしたスウェーデンはデンマークへの援軍を翻意
1964年シュレスウィヒ・ホルシュタイン戦争が勃発
孤立無援のデンマークは大敗を喫し、シュレスウィヒ・ホルシュタインの両州を放棄
⇒デンマークから奪還したこの2州を独占し、オーストリアを怒らせ開戦口実を作る
大国のオーストリアに勝つための準備
1965年 フランスの軍事介入を防ぐ為中立同盟を結ぶ
1966年 イタリアと攻守同盟を結ぶ
戦場まで鉄道と通信のインフラ整備
ナポレオン戦術から学んだ戦場集中戦術(開戦前に戦線をひろく分散、開戦と同時に全軍を戦場に向かって戦力集中させる戦術)を軍に叩き込む
小国プロシアの連戦連勝
オーストリア軍の実情:兵器も古い、戦術も古い、兵器の士気も練度も低い、インフラ整備もできていない
⇒そこをついて一気に短期決戦に持ち込む
戦後、オーストリア主導のドイツ連邦を解体
⇒プロシア主導の北ドイツ連邦をオーストリアに認めさせ、ドイツ統一まであと少し
⇒残された南ドイツを統一するためには後ろ盾になっているフランスを撃破する必要あ
フランスとの戦争に備えて用意周到なプロシア
スパイを派遣し戦場の地形を徹底調査
首都ベルリンから独仏国境まで6本の鉄道を敷く
開戦とともに38万人の軍を派兵
それに対してフランス
軍は16万人のみ
鉄道なし
想い装備を背負った兵はボージュ山脈を歩いて越え、戦地まで赴くことに
しかしフランスでは対独復讐世論が渦巻き、これがWWIの惨禍の一因に
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房
戦争と革命の世界史 第四章ヨーロッパ覇権の崩壊についての備忘録
第四章 ヨーロッパ覇権の崩壊
19世紀、中近東ではオスマン帝国が、インドではムガール帝国が、中国では清朝が一斉に衰退期に入り、白人列強の隷属化に置かれる
日本:ヨーロッパからもっとも遠く、そして貧しかった⇒鶏肋のようなもの
明治維新を成し遂げる猶予が与えられる
中国:義和団の乱を最後の抵抗として半植民地化が完成
当時ロシアは、歳入は日本の8倍、陸軍は10倍、海軍では3倍の開き
伊藤博文を中心とした避戦派は必死に外交的解決を図ろうとするが、まるで相手にされずついに開戦(日露戦争)
仁川沖海戦、鴨緑江の戦い、南山の戦い、遼陽の戦いと日本軍の連戦連勝
旅順の攻防戦という激戦を挟んで、黄海海戦、日本海海戦と連勝、奉天会戦で最終的勝利を得る
幸運と神助と天祐に恵まれた
19世紀の末から20世紀初頭のアジアでは絶望感・劣等感が蔓延していた
日露戦争を機にアジア毛の人々が自信を取り戻す
アメリカとソ連二つの超大国はどちらも人工的につくられた特殊な国家
19世紀後半、第二次産業革命(電気・ガス・石油などを主なエネルギー源とし、内燃機関・モーターなどを主な駆動機関とする技術革新)が起こる。
⇒産業革命は社会に莫大な富をもたらしたが、それを独占したのは資本家ばかりで貧富の差は拡大
⇒社会主義が発達
当初の幼稚な社会主義を空想的だと批判したのがカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルス
当時のロシア:ヨーロッパでもっとも遅れた国 絶対主義が健在で皇帝が行政・立法・司法・軍事において絶対的権力を誇り、国民には基本的人権も自由も財産権も保証されていない状況
マルクスの理論はイギリス経済学を基盤として構築されていたためロシア経済に当てはまらず
⇒無理やり当てはめようとした結果、メンシェヴィズム、レーニニズム、トロツキニズムなどいびつな社会主義が誕生してしまう
マルクスは社会主義の建設のために二段階で革命を乗り越える必要があると説く
②それから3-4世代かけてブルジョワ民主主義政権を腐敗させる
③プロレタリアート社会主義革命をおこし、腐敗した民主主義政権を倒して社会主義政権を打ち建てる
唯物史観:歴史とは形而上学的・幾何学的・機械的に展開するのであって人間の意識・感情・願望というものは全く関係ないということを前提とした歴史観
ユーリー・マルトフら率いるメンシェヴィキは二段階革命論を実現するためまずはブルジョワ民主主義革命を起こすことを当面の目標に
⇒革命を推進するための資本家が全く育っていなかった
⇒メンシェヴィキたちは労資同盟を提唱
⇒レーニンはこれを批判「労働者と資本家は不倶戴天の敵同士」。労農同盟によって革命を達成するべきであると主張
⇒トロツキーはレーニンの労農同盟もマルトフの労資同盟も否定し、労働者による単独革命を主張
しかし、労働者単独革命ではブルジョワ民主主義革命ではなくプロレタリアート社会主義革命になってしまう
トロツキーはマルクスの理論を否定。民主主義革命を経ず、いきなりプロレタリアート社会主義革命を起こそうとする
ロシアの革命機運が蔓延する中で勃発したのが日露戦争
⇒蔵相セルヴィ・ヴィッテは開戦に反対していたが、内相ヴァスチェスラフ・プレーヴェは革命機運を鎮静化するためには小さな戦争をするのが良いと開戦
⇒プレーヴェの予想に反して戦争は大規模化、国家財政は悪化し、連戦連敗の様子に革命機運は逆に高まることに。旅順要塞の陥落の知らせを受けついに国民の不満が爆発
帝都ペテルブルクでのデモで軍が発砲し大惨事に(血の日曜日事件)、爆弾テロ、水平反乱(ポチョムキン号)、ゼネストへと発展し、革命化。(ロシア第一革命)
⇒ポーツマス条約を成立させて帰国したヴィッテが皇帝ニコライ二世を説得して十月宣言を出させたことにより収束に向かう
十月宣言の内容
①信仰・言論・集会・結社の自由
②国会の創設を約束
③広範な選挙権を与える
⇒マルトフを中心としたメンシェヴィキは満足し革命から離脱
⇒レーニンを中心とするボリシェヴィキは反発して武装蜂起したが失敗。レーニンは亡命し、革命は鎮静化
血の日曜日事件をきっかけにロシア人民は皇帝への盲愛・盲従・盲信をやめ帝室から離れるように
⇒危機感を覚えたヴィッテはニコライ二世に改革を提案するが、自身の置かれた立場や深刻さを自覚できなかったニコライ二世は改革に嫌悪感を示し、ヴィッテを更迭する
⇒ヴィッテ失脚後、ストリピンも改革に着手するが手遅れ、暗殺される
⇒ストリピンの死後、ラスプーチンが登場。プラシーボ効果を利用した手品を使用して皇太子アレクセイの病を改善、皇后アレクサンドラに取り入る
⇒皇帝夫妻はラスプーチンの言いなりに。政治は紊乱していく
WWIが勃発。前線では遅れた装備に兵站の破綻で「弾薬なし、外套なし、食糧なし」の状態が慢性化。ロシア兵は次々とドイツに降参し捕虜になった
後方では、戦前から慢性的な食糧不足に苦しめられていたが、参戦により産業が軍事産業に切り替えられ、食料は前線へ⇒都市部では危機的な食糧不足、国民生活は破綻
ロシア革命は大きく第一革命(1905年)と第二革命(1917年)にわかれ、第二革命は二月革命(3月)と十月革命(11月)の二段階に分かれる
1917年3月帝都ペテログラードで「パンよこせ」デモが起きる
その日のうちに8万人、翌日には16万人、さらにその翌日には24万人(帝都の3分の2の労働者)が参加
⇒ニコライ二世は事の重大さが理解できず、軍をもっての鎮圧を試みるが、軍隊まで革命側に合流
⇒事の深刻さを悟った国会議長ロジャンコは皇帝ニコライ二世に「帝都は無政府状態なり。即刻責任内閣を施工する必要あり。一刻の遅延は破滅に通ずると確信す」と連絡
⇒ニコライ二世は放置。的確な対応をせず
メンシェヴィキ指導の下「ソヴィエト(評議会)」が結成され、革命は成功裡におわる
二月革命はマルクス理論のブルジョワ民主主義革命に該当。次の社会主義革命までは100年あるとメンシェヴィキは満足し、革命を終わらせようとするが、スイスに亡命していたレーニンが帰国し四月テーゼを発表
⇒革命を終わらせず、このまま社会主義革命まで突き進めるべきと主張
⇒この主張はいままでのレーニンの主張と矛盾。この発言に政敵のメンシェヴィキからも同志のボリシェヴィキからも批判が殺到
⇒孤立したレーニンは政敵でったトロツキーと手を組み革命続行を主張し続ける
二月革命によって生まれた臨時政府は戦争続行を表明、市民の不満が募る
戦争の即時終結を主張するレーニンに支持が集まり十月革命が勃発
臨時政府は一夜にして崩壊し、レーニンはただちに新政府(人民委員会議)をつくり、平和に関する布告と土地に関する布告を発し、ブレストリトフスク条約をむすぶことでWWIから手を引き憲法制定会議など国づくりに邁進
⇒こうして生まれたソヴィエト政権は以後74年間ロシアを支配し、歴史に絶大な影響を与えるように
対ソ干渉戦争
生まれたばかりのソヴィエト政権は脆弱で、「白軍(ビェーラヤ・アールミヤ)」と称する旧帝国軍を中心とした反乱が各地で相次ぐ
南のウクライナからデニキン将軍
東のオムスクからコルチャック将軍
南東のウラルからドウトフ将軍
北のアルハンゲリスクからミレル将軍
西のエストニアからユデーニチ将軍
とまさに四面楚歌
100日天下となる公算が高かった
世界初の社会主義国家の建設は、資本主義国家群を疑心暗鬼にさせる
永久革命論を根幹とするトロツキニズムを支持するレーニン
⇒資本主義国家に社会主義革命が輸出されるのではないかという懸念。
またイギリスは中近東での経済利権を脅かされることを懸念、フランスはロマノフ朝に融資していた莫大な資本が無効になることを恐れていたという経済的側面、さらには革命政権を倒すことで東部戦線を復帰させたいという軍事的側面もあり複合的な理由があった
⇒白軍による反革命運動を支援する動きが生まれる(対ソ干渉戦争)
1918年3月、イギリスとフランスがミレル将軍を支援し北海から上陸。
6月、アメリカも参戦。
8月、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、中国などがセミョーノフ将軍を支援してシベリア出兵を始める
1919年2月、ポーランドも参戦(ソヴィエト・ポーランド戦争)
⇒連合国側に厭戦ムードが蔓延
⇒オデッサ停泊中のフランス軍艦で反戦暴動が起こり、連合国は順次撤退
⇒対ソ干渉戦争は急速にしぼみ、1920年までには収束
対ソ干渉戦争のおかげでソ連国内が結束
ソ連にとって、世界でソ連以外は資本主義国、すなわち敵国という考えから、自国の周りに衛星国家を作って防壁とすることを国是とするようになる。
もし対ソ干渉戦争がなければソ連は存続していなかったかもしれない
引用参考文献
神野正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房
戦争と革命の世界史 第三章米ソ冷戦の時代 の備忘録
第三章 米ソ冷戦の時代
イギリスの三枚舌外交
WWI中、アラブ人を味方につけたかったイギリスはアラブ人に対して「戦後、オスマン帝国領内のアラブ人居住地域にアラブ人国家の独立を認める」と約束をした(フサイン・マクマホン協定)
それと同時にユダヤ人に対しても「戦後、パレスティナにユダヤ人国家の独立を認める」とも約束(バルフォア宣言)
ロシア・フランスに対してはオスマン帝国内の領土を英ロ仏で分割するとも約束(サイクス・ピコ協定)
1つしかない土地をアラブ人とユダヤ人の両民族に分け与える、かつ英ロ仏で分け合うという三枚舌外交を展開した
そもそもパレスティナは2000年前まではユダヤ人が住んでいたが世界分散していき、その後に住み着いたのがアラブ人(パレスティナ人)である
戦後、土地をめぐっての争いはらちが明かず、そもそもの元凶であるイギリスは双方からの突き上げに苦しむ
⇒困り果てたイギリスはパレスティナを「30年期限の委任統治領」として問題を先送りに、解決策を見出せなかったイギリスは30年後国連に泣きついた
⇒国連は「パレスティナ分割案」を提案 ユダヤ人は承諾したがアラブ人は断固拒否
1948年5月イギリス軍が撤退
その日のうちにイスラエル建国宣言。
15分後に建国承認。
三時間後にアラブ諸国はただちにイスラエルに宣戦布告(第一次中東戦争)
⇒北からはレバノン軍・シリア軍、東からはヨルダン軍・イラク軍、二死からはエジプト軍、南からはサウジアラビア軍・イエメン軍など15万人がイスラエルに進撃
兵力でも戦略でもアラブ連合軍の圧勝かと思われたが…
各戦線でアラブ連合軍が連戦連敗、イスラエル軍の勝利で幕を閉じる
イスラエル軍の勝因
①アメリカの潤沢な軍事支援が得られた
⇒兵站の心配なく最新兵器で戦えた
②兵の士気が非常に高かった
⇒2000年ぶりの民族国家建設という夢
アラブ連合軍の敗因
①古い武装で戦った
②アラブ各国の信頼関係がなくばらばらだったため統一的作戦行動がとれなかった
⇒大兵力を活かしきれず
ヨルダン河西地域とガザ地区を除くパレスティナのほぼ全域をイスラエルが支配
⇒アラブ諸国内ではエジプトを中心とした「イスラエルと戦い続ける強硬派」とイランを中心とした「共存・和解を図る穏健派」にわかれる
⇒中東世界に米ソ冷戦構造ができあがる
軍部と国民は反イギリスであったが、エジプト王家(アリー家)は1922年にイギリスに形式的独立を認めてもらった恩があるため親英であった
⇒王家に怒りの矛先が向かい、王朝を打倒することを目的として、青年将校を中心に「自由将校団」を結成
事実上の指導者はナーセルであったが、国民から人気のあったナギーブ少将を団長として迎え入れる。
団長を外部から招き入れた理由
①幅広く支持を集める広告塔になってもらうため
②もし政変に失敗したとき彼にトカゲのしっぽになってもらうため
1952年7月 国王ファールーク1世を捕らえる国外へ追放(七月政変)
1953年 王政廃止・共和国宣言
初代大統領には自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが就任
⇒実質的指導者のナーセルとの関係が冷え込む
1954年ナーセルの暗殺未遂事件 ナギーブを共犯者と決めつけて逮捕、幽閉(十一月政変)
⇒第二代大統領にナーセルが就任
エジプト革命は中東において王朝打倒と民族主権を初めて成功させた革命
新大統領になったナーセルは反イスラエル・反アメリカ・反イギリス・反フランス/親ソ親中親東欧の立場
エジプト革命前に進めていたイギリスの資金援助を背景としたアスワン・ハイダムの建設を再開
⇒米英の接近。資金提供の申し入れ(エジプトを西側陣営に引き戻すため)
⇒ソ連とは手を切らないが資金提供は受ける姿勢
⇒交渉は平行戦をたどり1956年に決裂 二億円の資金提供を取りやめる
⇒エジプトはスエズ運河を国営化することを発表
スエズ運河は実質英仏の支配であった
第一次中東戦争以来エジプトと国境紛争が続いていたイスラエルはエジプトにアカバ湾を封鎖されており、スエズ運河までおさえられるとイスラエルはアラビア海に出られなくなってしまう⇒イスラエルも英仏に加担
エジプトVSイスラエル・イギリス・フランスとなればエジプトに勝ち目はないがエジプトの後ろにはソ連がいたため、ナーセルは英仏は軍事行動を起こさないだろうと勝算があった
⇒しかし1956年10月ハンガリーで反ソ暴動が勃発。ソ連は対応に忙殺されることに
⇒英仏イスラエルはこの隙に軍を動員(第二次中東戦争・スエズ戦争)
エジプト軍は連戦連敗・ハンガリーでの暴動をおさえるのに忙しいソ連からの援軍も期待できず
⇒ナーセル政権が倒れれば、ふたたびエジプトは西側陣営へ
ソ連首相ブルガーニンは英仏イスラエルにエジプトからの撤退を要請
撤退しなければ核兵器を使用するとも発表
⇒アメリカノアイゼンハウワー大統領もソ連が核兵器をしようすればこちらもつかうと応戦
⇒世界各国が騒然、反戦に立ちあがり、国際世論に押されるようにしてアメリカも英仏の撤退を要請
英仏は「戦術的」には連戦連勝であったが、戦争はエジプトの「戦略的」勝利で終わる
⇒この戦争が大きな転換点に
「武力が無制限に力を発揮する時代」から「武力より世論を制したものが勝つ時代」に
第二次中東戦争の英仏の敗北は単なる「英仏の敗北」だけを意味しているのではなく、これまで武力で支配してきた白人列強全体が衰退を余儀なくされるだろうことを示す象徴的な戦争
第二次中東戦争に勝利したナーセルはアラブ諸国から「アラブの英雄」として迎えられる。
エジプト革命は近隣諸国に多大な影響
イラクもエジプトと同じくイギリスにつくってもらった国家のため、王家は親英なのに国民は反英というアンバランスな社会体制であった
イラクのカーシム准将は、ナーセルの自由将校団をモデルとして、1958年にアーリフ大佐とともに政治結社を結成し、革命を起こす(イラク革命)
エジプト革命との類似点
①青年将校が立ち上がって革命を起こした点
②親英王朝を打倒し、共和制へ移行した点
③新政府は反英・親ソであった点
④カーシム准将がアーリフ大佐とタッグを組んで革命を導いた点(エジプト革命におけるナギーブ少将とナーセル中佐)
⑤革命成功後、カーシム准将とアーリフ大佐が対立した点
⇒革命後カーシムを首相、アーリフを副首相として新政権が発足したが、1963年アーリフがカーシムを追い落とす政変が起こる(ラマダーン革命)
エジプト革命との相違点
イラク革命は旧体制の王族やその側近らを皆殺しにした点
⇒内戦に突入・政府は1963年2月のラマダーン革命と1963年11月イラククーデター、そして1968年7月12日クーデターなど相次いで政変。
その中で、イランは1979年2月イラン革命を成功させる。
第一次冷戦
1945年にWWIIが終結すると共通の敵の前に手を結んでいた米英とソ連の関係は悪化
先手を打ち、ソ連は東ヨーロッパにコマを進め国々を自国の支配下においた・
⇒ソ連の傀儡政権となったのは1945年にルーマニア・ブルガリア、1947年ポーランド・ハンガリー、1948年チェコスロバキア、1949年に東ドイツ
1946年イギリスの前首相ウィンストン・チャーチルのフルトン演説(鉄のカーテン演説)
⇒共産主義こそが我々の脅威であるとの演説にスターリンは激怒。国際緊張が走る
アメリカが原子爆弾の開発に成功したため、米ソが核兵器開発競争をはじめる
⇒人類滅亡の危機がWWIIIを避けさせた
従来、戦争は国家間の紛争解決の最終手段であった
⇒国家間の紛争がなくなっていないのに解決手段である戦争が実行できなくなってきた⇒戦争は形を変え、牽制合戦に⇒「冷戦」へ(自陣営の勢力拡大競争)
⇒南のギリシアとトルコを狙い始める
1947年アメリカのトルーマン大統領はこの動きを察知、「トルーマンドクトリン」を宣言。京三革命寸前のギリシアとトルコに経済援助及び軍事援助を行った
⇒さらに1948年西ヨーロッパ連合(WEU)、1949年には北大西洋条約機構(NATO)を結成
ソ連のヨーロッパ進行をNATOとトルーマンドクトリンで封じ込める(封じ込め政策)
1950年代にはいると、封じ込め作戦の中心が環太平洋に移る
1949年に中華人民共和国が成立、1950年に朝鮮戦争が勃発などが理由
⇒1951年「アメリカフィリピン相互防衛条約」、オーストラリア・ニュージーランドと「太平洋安全保障条約(ANZUS)」ANZUSを結ぶ
⇒アメリカは日本とも軍事同盟を結びたいと考えたが、当時の日本は占領状態であり、主権国家でないだけでなく軍隊も解体されていた。
⇒「警察予備隊」として軍隊を復活させる。また、「サンフランシスコ平和条約」で日本に主権を与えた
日米安全保障条約を締結(実質的には軍事条約)
1953年朝鮮戦争が休戦、「米韓相互防衛条約」を結ぶ。
1954年には台湾と「米華相互防衛条約」。
⇒アメリカの環太平洋封じ込め政策が完成
今度は東南アジアの封じ込めへ着手
1954年インドシナ戦争が終結⇒東南アジア条約機構(SEATO)
1955年中東条約機構(METO)が結成⇒トルコ・イラク・イラン・パキスタンが加盟
SEATOにはインド・ビルマ・マレーシア・インドネシアなどが加盟しておらず封じ込めには穴があった
⇒当時インドが 非同盟主義を提唱、東南アジアの国々もこれに同調したため
⇒しかし1962年インドが非同盟主義を放棄。さらにヴェトナム戦争の戦局が悪化しベトナム全土が共産化・社会主義化してしまう恐れ
1967年アメリカ支援の下東南アジア諸国連合(ASEAN)が生まれる
⇒タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシア・フィリピンを原加盟国とする反共軍事同盟
⇒東南アジアでの封じ込めが完成
METO完成の3年後、1958年イラク革命がおこるとイラクはMETOを脱退
⇒METOをCENTOに改組するが1979年のイラン革命でCENTOも崩壊した
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房
戦争と革命の世界史 第二章 現代の震源地、中東 についての備忘録
第二章 現代の震源地、中東
イラン近代化改革「白色革命」
1979年2月 イラン革命
ソ連のアフガニスタン侵攻から1989年マルタ会談までを「第二次冷戦」とよぶ
(第一次冷戦は1945年~1955年)
当時のイラン パフレヴィー朝イラン帝国
パフレヴィー朝は建国以来イギリスの傀儡であったが、WWII後イギリスを追い出すことに成功
⇒1951年にはモサデグ政権が石油国有化宣言を行い、52年にイギリスと国交断絶
これを機に、皇帝レザー・シャー・パフレヴィー二世が白色革命を推進
⇒「六項目宣言」
①農地改革
②森林・牧草地の国有化や国有工場の払下げ
③教育改革
④工場労働者に対する企業の利益配分
⑤女性解放政策(参政権の付与、ヒジャブの禁止、一夫多妻制の廃止等)
⑥セパーエ・ダーニシの創立
⇒改革には一定の効果もあったが、増加した国富を権力者が独占
「富める者はますます富み、貧しきものはますます貧す」(マタイの法則)
社会的弱者たちを救済せず、抑え込むために官僚制の整備と軍拡を進め独裁体制の確立に尽力。治安警察サヴァクの強化など弾圧の姿勢を強める
ゴムで発生した小さなデモ(憲法の制定・三権分立・言論の自由・警察暴力の根絶などの12か条の要求を掲げる)を弾圧
⇒このデモを契機にデモが全国化・大規模化
1979年9月帝都テヘランでの黒い金曜日事件で犠牲者多数
⇒「王朝打倒」を叫び始める(デモが革命へと転化)
⇒パブレヴィ―二世がエジプトへ亡命したのと入れ替わりにパリからホメイニ師が帰国
アメリカ政府と一触即発の状況でパフレヴィー二世がアメリカへ亡命
イランはアメリカにパフレヴィー二世の引き渡しを要求するがアメリカは拒否
⇒激昂した者たちによってイランアメリカ大使館が占拠され、大使館員などを人質としてパフレヴィ―二世の引き渡しを要求
⇒外交交渉は暗礁に乗り上げる
1980年アメリカ大統領に再選したいジミー・カーターが人質救出作戦を決行(イーグルクロウ作戦)
⇒当時創設されたばかりの極秘精鋭特殊部隊「デルタフォース」を投入
(ホワイトハウスはデルタフォースの存在を認めていないが)
⇒エンジントラブルや自軍機同士の衝突など大失敗。救出はできず
この失敗でカーターは再選できずロナルド・レーガンが大統領に
⇒この間にパフレヴィー二世が死去 イランアメリカ大使館は解放された
イラン革命の成功により国際外交のパワーバランスが崩れる
イラクでは小数(約30%)のスンニ派が多数(約65%)のシーア派を支配する構造
(全世界ではスンニ派が90%、シーア派が10%。イラクのようにシーア派が多数を占める国は、イラン、アゼルバイジャン、バーレーンくらい)
恐怖政治・独裁体制での支配、政府はシーア派の反乱をおそれていた
⇒イラン革命を目の当たりにし、当時のイラクの大統領サッダーム・フセインはイランとの戦争を画策
戦争をすることで国内の結束を図り、またシーア派戦力に対する威圧にもなる
開戦すればアメリカは味方に付いてくれるだろうし、「アラブ人VSイラン人」の構図に持っていくことでアラブ諸国も支持してくれるだろう
戦争の口実としては長年の国境問題を引き合いに出した
1980年9月イラク空軍がイランの重要拠点を奇襲
⇒敵基地施設の破壊には成功したもののイラン空軍機の破壊には失敗
⇒イランに反撃のチャンスを作ってしまい、革命の影響で内乱状態だったイラン国内が結束。
またアメリカは心情的にはイラク支持であったが、第二次冷戦がはじまったため表立って支援はせず(イラクとの国交正常化や武器支援などの間接的な支援はした)
アラブ諸国も支援には消極的であった
戦争を終わらせる要因が生まれなかったためイラン・イラク戦争(第一次湾岸戦争)は以後8年続いた
仲介できる立場の国連常任理事国をはじめとする主要国が競って両国に武器を輸出し「死の商人」として荒稼ぎ。新兵器の実験場と化していた。
1985年イラクはイランにおける制空権を確保すべく無差別撃墜宣言を出す
⇒48時間後以降イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機・民間機を問わずに無差別に撃墜すると発表
⇒在斯邦人が取り残されるが、トルコ政府が救出をしてくれた
⇒100年前のエルトゥールル号の恩返し
1986年 イラン・コントラ事件:アメリカがイラン・イラクの領国に武器輸出していたことが発覚
⇒財政再建のために石油収入を増やすしかない
原油生産の急激な増産は望めないうえ、その場合原油単価の下落を招く恐れあり
⇒石油収入のアップのためには石油減産が必要だが、イラクのみでは実行不可能
⇒OPEC(イラン・イラク・クウェート・サウジアラビア・カタール・UAEなど13か国が加盟している石油カルテル)の協力が必要
OPECに原油減産をもとめたところサウジアラビア・UAE・クウェートなどが反対
これら反対国はいずれも親米で背後にアメリカの意向が反映されていた
イラクは反対するサウジアラビア・UAE・クウェートといった親米アラブ諸国に怒り心頭
クウェートは原油増産を続け、さらにはクウェート領内からイラク領内に向かって掘削を行いイラク領内最大の油田であるルマイラ油田へとパイプを伸ばし、原油を盗んで売り出していた。
もともとクウェートはイラク領であり、イギリスが中東支配の橋頭保にするためにイラクから切り離して作った国であった。
当時イラクは軍拡を進めており、フセインはクウェート併合を決意
1990年8月フセイン大統領は軍事行動を開始
⇒クウェートはわずか9時間で制圧され、その6日後に併合宣言が発せられた。
第二次世界大戦後、主権国家が併合された初めての事例であり、国連安保理事会もイラクに即時撤退を求める
1991年1月 「多国籍軍」と名乗る実施アメリカ軍が砂漠の嵐作戦と称してイラクに空爆を始める。湾岸戦争開戦
戦争を短期に終わらせたいアメリカの思惑とは裏腹にフセインの捜索は難航
⇒イラクが故意にペルシア湾に重油を流し、環境テロを行っているとねつ造し報道
⇒イラクの完敗に終わり、イラクには莫大な賠償請求が課せられた
⇒のちの9.11アメリカ同時多発テロやその後のイラク戦争につながる
このころのアフガニスタン
1973年 18世紀以来アフガニスタンを支配してきたドゥッラーニー王朝が王族ムハンマド・ダーヴード陸軍中将の軍事政変によって滅亡し、王国から共和国になっていた
⇒社会主義政党「人民民主党」による政変で共和国はあっけなく滅亡し、今度はタラキーを首班とする「人民共和国」になる
⇒事実上ソ連の傀儡政権であったが、「宗教は麻薬」と断ずる社会主義とイスラームは水と油
⇒不満が鬱積しアフガニスタンの情勢不安は高まる一方であった
ここで、イラン革命がおきる
⇒アフガニスタンの不穏分子がムジャーヒディーン(聖戦を遂行する者たち)と称して各地で反乱、国内は無秩序状態になる
政府内では与党内の権力闘争から政変が起こり、タラキー政権(親ソ派)は倒れ、アミーン政権(中立主義)に交代
⇒混乱の鎮静化のため、アミーンはアメリカに接近する姿勢を見せる
ソ連はアミーン政権を倒し、ふたたびアフガニスタンをソ連の傀儡政権にすべく、軍事介入を決意(アフガニスタン侵攻)⇒第二次冷戦突入へ
⇒アフガン・ゲリラの士気は高く、イスラーム各国から義勇軍、パキスタンが兵站支援、中国やアメリカが武器や資金の援助など
・第二次世界大戦の勝利体験(独ソ戦)から、大戦時と同じ戦法で戦おうとして敗れた
・10年以上の泥沼化
・超大国が小国に負けた
・多大な戦費を費やして財政が破綻
⇒ヴェトナム戦争の再現のようなもの
ソ連はこのアフガニスタン侵攻によって国際的威信を低下させることになり、滅亡の遠因に
1989年ソ連軍はアフガンスタンから撤退
⇒アフガニスタン国内は人口の半分をパシュトゥーン人(アフガン系・スンニ派)を中心として、ハザーラ人(イラン系・シーア派)、タジーク人(イラン系・スンニ派)、ウズベク人(トルコ系・スンニ派)と民族と宗教が複雑に対立
さらにムジャーヒディーンの残党により治安が悪化、内乱状態へ突入
⇒パキスタンはこの内乱に乗じてアフガニスタンに自国の傀儡政権作ろうともくろむ
パキスタンはパシュトゥーン人の難民を神学校(マドラサ)にいれ、偏狭で過激な教えを徹底的にたたき込む洗脳教育を施した
⇒「戦死すればかならず楽園に行ける」と命知らずの尖兵(ターリバーン)を育成
⇒内乱状態のアフガニスタンに侵攻、パシュトゥーン人地域を制圧
厳格なイスラーム戒律を強調し、すべての娯楽を禁じ、女性差別政策を断行。
⇒住民は辟易しながらも「内戦状態よりはマシ」とターリバーン政権を消極的ながら支持
北方に追いやられたウズベク人・ハザーラ人・タジーク人は「北部同盟」を結成しターリバーンに抵抗をつづけた
ソ連軍アフガニスタン侵攻の際、イスラーム諸国からの義勇兵のなかにウサマ・ビン・ラディーンがいた。
ソ連撤兵後はサウジアラビアに戻っていたが、湾岸戦争の際さサウジアラビアは親米のため、イラク戦争の最前線基地として多国籍軍を受け容れ
⇒サウジアラビアはイスラームの発祥の地であり異教徒を排除する国柄
⇒ウサマ・ビン・ラディーンは多国籍軍を受け容れた国王を非難したが、国籍をはく奪され国外追放処分
⇒アフガニスタンへ戻り、同志ムジャーヒディーンたちと糾合し「アルカイーダ」をつくる
アルカイーダはターリバーン政権に庇護してもらう代わりにターリバーン政権に資金提供
⇒1993年世界貿易センタービルを爆破、1996年サウジアラビアの米軍基地を爆破、1998年にはケニア・タンザニアのアメリカ大使館を同時爆破など次々とテロを実行
⇒アメリカはターリバーン・アルカイーダ問題に行き詰り、戦争での解決を決意したとき「9.11アメリカ同時多発テロ」が勃発
⇒これを口実として対テロ戦争へ
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 大和書房