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戦争と革命の世界史 第三章米ソ冷戦の時代 の備忘録

第三章 米ソ冷戦の時代

 

イギリスの三枚舌外交

WWI中、アラブ人を味方につけたかったイギリスはアラブ人に対して「戦後、オスマン帝国領内のアラブ人居住地域にアラブ人国家の独立を認める」と約束をした(フサイン・マクマホン協定)

それと同時にユダヤ人に対しても「戦後、パレスティナユダヤ人国家の独立を認める」とも約束(バルフォア宣言)

ロシア・フランスに対してはオスマン帝国内の領土を英ロ仏で分割するとも約束(サイクス・ピコ協定)

1つしかない土地をアラブ人とユダヤ人の両民族に分け与える、かつ英ロ仏で分け合うという三枚舌外交を展開した

そもそもパレスティナは2000年前まではユダヤ人が住んでいたが世界分散していき、その後に住み着いたのがアラブ人(パレスティナ人)である

 

戦後、土地をめぐっての争いはらちが明かず、そもそもの元凶であるイギリスは双方からの突き上げに苦しむ

⇒困り果てたイギリスはパレスティナを「30年期限の委任統治領」として問題を先送りに、解決策を見出せなかったイギリスは30年後国連に泣きついた

⇒国連は「パレスティナ分割案」を提案 ユダヤ人は承諾したがアラブ人は断固拒否

 

1948年5月イギリス軍が撤退

その日のうちにイスラエル建国宣言。

15分後に建国承認。

三時間後にアラブ諸国はただちにイスラエルに宣戦布告(第一次中東戦争)

⇒北からはレバノン軍・シリア軍、東からはヨルダン軍・イラク軍、二死からはエジプト軍、南からはサウジアラビア軍・イエメン軍など15万人がイスラエルに進撃

兵力でも戦略でもアラブ連合軍の圧勝かと思われたが…

各戦線でアラブ連合軍が連戦連敗、イスラエル軍の勝利で幕を閉じる

 

イスラエル軍の勝因

アメリカの潤沢な軍事支援が得られた

兵站の心配なく最新兵器で戦えた

②兵の士気が非常に高かった

⇒2000年ぶりの民族国家建設という夢

 

アラブ連合軍の敗因

①古い武装で戦った

②アラブ各国の信頼関係がなくばらばらだったため統一的作戦行動がとれなかった

⇒大兵力を活かしきれず

 

ヨルダン河西地域とガザ地区を除くパレスティナのほぼ全域をイスラエルが支配

アラブ諸国内ではエジプトを中心とした「イスラエルと戦い続ける強硬派」とイランを中心とした「共存・和解を図る穏健派」にわかれる

穏健派をアメリカが、強硬派をソ連が支援

⇒中東世界に米ソ冷戦構造ができあがる

 

第一次中東戦争にまけたアラブ連盟の盟主エジプト

軍部と国民は反イギリスであったが、エジプト王家(アリー家)は1922年にイギリスに形式的独立を認めてもらった恩があるため親英であった

⇒王家に怒りの矛先が向かい、王朝を打倒することを目的として、青年将校を中心に「自由将校団」を結成

事実上の指導者はナーセルであったが、国民から人気のあったナギーブ少将を団長として迎え入れる。

団長を外部から招き入れた理由

①幅広く支持を集める広告塔になってもらうため

②もし政変に失敗したとき彼にトカゲのしっぽになってもらうため

 

1952年7月 国王ファールーク1世を捕らえる国外へ追放(七月政変)

1953年 王政廃止・共和国宣言

初代大統領には自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが就任

⇒実質的指導者のナーセルとの関係が冷え込む

1954年ナーセルの暗殺未遂事件 ナギーブを共犯者と決めつけて逮捕、幽閉(十一月政変)

⇒第二代大統領にナーセルが就任

エジプト革命は中東において王朝打倒と民族主権を初めて成功させた革命

 

新大統領になったナーセルは反イスラエル・反アメリカ・反イギリス・反フランス/親ソ親中親東欧の立場

エジプト革命前に進めていたイギリスの資金援助を背景としたアスワン・ハイダムの建設を再開

⇒米英の接近。資金提供の申し入れ(エジプトを西側陣営に引き戻すため)

ソ連とは手を切らないが資金提供は受ける姿勢

⇒交渉は平行戦をたどり1956年に決裂 二億円の資金提供を取りやめる

⇒エジプトはスエズ運河を国営化することを発表

スエズ運河は実質英仏の支配であった

第一次中東戦争以来エジプトと国境紛争が続いていたイスラエルはエジプトにアカバ湾を封鎖されており、スエズ運河までおさえられるとイスラエルアラビア海に出られなくなってしまう⇒イスラエルも英仏に加担

エジプトVSイスラエル・イギリス・フランスとなればエジプトに勝ち目はないがエジプトの後ろにはソ連がいたため、ナーセルは英仏は軍事行動を起こさないだろうと勝算があった

⇒しかし1956年10月ハンガリーで反ソ暴動が勃発。ソ連は対応に忙殺されることに

⇒英仏イスラエルはこの隙に軍を動員(第二次中東戦争スエズ戦争)

 

エジプト軍は連戦連敗・ハンガリーでの暴動をおさえるのに忙しいソ連からの援軍も期待できず

⇒ナーセル政権が倒れれば、ふたたびエジプトは西側陣営へ

ソ連勢力圏の後退を意味するのでソ連も見過ごせない

 

ソ連首相ブルガーニンは英仏イスラエルにエジプトからの撤退を要請

撤退しなければ核兵器を使用するとも発表

アメリカノアイゼンハウワー大統領もソ連核兵器をしようすればこちらもつかうと応戦

⇒世界各国が騒然、反戦に立ちあがり、国際世論に押されるようにしてアメリカも英仏の撤退を要請

 

英仏は「戦術的」には連戦連勝であったが、戦争はエジプトの「戦略的」勝利で終わる

⇒この戦争が大きな転換点に

「武力が無制限に力を発揮する時代」から「武力より世論を制したものが勝つ時代」に

第二次中東戦争の英仏の敗北は単なる「英仏の敗北」だけを意味しているのではなく、これまで武力で支配してきた白人列強全体が衰退を余儀なくされるだろうことを示す象徴的な戦争

 

第二次中東戦争に勝利したナーセルはアラブ諸国から「アラブの英雄」として迎えられる。

 

エジプト革命は近隣諸国に多大な影響

イラクもエジプトと同じくイギリスにつくってもらった国家のため、王家は親英なのに国民は反英というアンバランスな社会体制であった

イラクのカーシム准将は、ナーセルの自由将校団をモデルとして、1958年にアーリフ大佐とともに政治結社を結成し、革命を起こす(イラク革命)

 

エジプト革命との類似点

青年将校が立ち上がって革命を起こした点

②親英王朝を打倒し、共和制へ移行した点

③新政府は反英・親ソであった点

④カーシム准将がアーリフ大佐とタッグを組んで革命を導いた点(エジプト革命におけるナギーブ少将とナーセル中佐)

 

⑤革命成功後、カーシム准将とアーリフ大佐が対立した点

⇒革命後カーシムを首相、アーリフを副首相として新政権が発足したが、1963年アーリフがカーシムを追い落とす政変が起こる(ラマダーン革命)

 

エジプト革命との相違点

イラク革命は旧体制の王族やその側近らを皆殺しにした点

⇒内戦に突入・政府は1963年2月のラマダーン革命と1963年11月イラククーデター、そして1968年7月12日クーデターなど相次いで政変。

その中で、イランは1979年2月イラン革命を成功させる。

その半月後、イラクの大統領にS.フセインが就任

 

第一次冷戦

1945年にWWIIが終結すると共通の敵の前に手を結んでいた米英とソ連の関係は悪化

先手を打ち、ソ連は東ヨーロッパにコマを進め国々を自国の支配下においた・

ソ連の傀儡政権となったのは1945年にルーマニアブルガリア、1947年ポーランドハンガリー、1948年チェコスロバキア、1949年に東ドイツ

 

1946年イギリスの前首相ウィンストン・チャーチルのフルトン演説(鉄のカーテン演説)

共産主義こそが我々の脅威であるとの演説にスターリンは激怒。国際緊張が走る

アメリカが原子爆弾の開発に成功したため、米ソが核兵器開発競争をはじめる

⇒人類滅亡の危機がWWIIIを避けさせた

 

従来、戦争は国家間の紛争解決の最終手段であった

⇒国家間の紛争がなくなっていないのに解決手段である戦争が実行できなくなってきた⇒戦争は形を変え、牽制合戦に⇒「冷戦」へ(自陣営の勢力拡大競争)

 

チャーチルのフルトン演説のためにソ連は東進をせき止められる

⇒南のギリシアとトルコを狙い始める

1947年アメリカのトルーマン大統領はこの動きを察知、「トルーマンドクトリン」を宣言。京三革命寸前のギリシアとトルコに経済援助及び軍事援助を行った

⇒さらに1948年西ヨーロッパ連合(WEU)、1949年には北大西洋条約機構(NATO)を結成

ソ連のヨーロッパ進行をNATOトルーマンドクトリンで封じ込める(封じ込め政策)

 

1950年代にはいると、封じ込め作戦の中心が環太平洋に移る

1949年に中華人民共和国が成立、1950年に朝鮮戦争が勃発などが理由

⇒1951年「アメリカフィリピン相互防衛条約」、オーストラリア・ニュージーランドと「太平洋安全保障条約(ANZUS)」ANZUSを結ぶ

アメリカは日本とも軍事同盟を結びたいと考えたが、当時の日本は占領状態であり、主権国家でないだけでなく軍隊も解体されていた。

アメリカは日本に対して軍隊を持つよう要請(ポツダム政令)

⇒「警察予備隊」として軍隊を復活させる。また、「サンフランシスコ平和条約」で日本に主権を与えた

日米安全保障条約を締結(実質的には軍事条約)

1953年朝鮮戦争が休戦、「米韓相互防衛条約」を結ぶ。

1954年には台湾と「米華相互防衛条約」。

アメリカの環太平洋封じ込め政策が完成

 

今度は東南アジアの封じ込めへ着手

 

1954年インドシナ戦争終結⇒東南アジア条約機構(SEATO)

1955年中東条約機構(METO)が結成⇒トルコ・イラク・イラン・パキスタンが加盟

SEATOにはインド・ビルマ・マレーシア・インドネシアなどが加盟しておらず封じ込めには穴があった

⇒当時インドが 非同盟主義を提唱、東南アジアの国々もこれに同調したため

⇒しかし1962年インドが非同盟主義を放棄。さらにヴェトナム戦争の戦局が悪化しベトナム全土が共産化・社会主義化してしまう恐れ

1967年アメリカ支援の下東南アジア諸国連合(ASEAN)が生まれる

⇒タイ・マレーシア・シンガポールインドネシア・フィリピンを原加盟国とする反共軍事同盟

⇒東南アジアでの封じ込めが完成

 

METO完成の3年後、1958年イラク革命がおこるとイラクはMETOを脱退

⇒METOをCENTOに改組するが1979年のイラン革命でCENTOも崩壊した

 

引用参考文献

神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 勁草書房