戦争と革命の世界史 第二章 現代の震源地、中東 についての備忘録
第二章 現代の震源地、中東
イラン近代化改革「白色革命」
1979年2月 イラン革命
ソ連のアフガニスタン侵攻から1989年マルタ会談までを「第二次冷戦」とよぶ
(第一次冷戦は1945年~1955年)
当時のイラン パフレヴィー朝イラン帝国
パフレヴィー朝は建国以来イギリスの傀儡であったが、WWII後イギリスを追い出すことに成功
⇒1951年にはモサデグ政権が石油国有化宣言を行い、52年にイギリスと国交断絶
これを機に、皇帝レザー・シャー・パフレヴィー二世が白色革命を推進
⇒「六項目宣言」
①農地改革
②森林・牧草地の国有化や国有工場の払下げ
③教育改革
④工場労働者に対する企業の利益配分
⑤女性解放政策(参政権の付与、ヒジャブの禁止、一夫多妻制の廃止等)
⑥セパーエ・ダーニシの創立
⇒改革には一定の効果もあったが、増加した国富を権力者が独占
「富める者はますます富み、貧しきものはますます貧す」(マタイの法則)
社会的弱者たちを救済せず、抑え込むために官僚制の整備と軍拡を進め独裁体制の確立に尽力。治安警察サヴァクの強化など弾圧の姿勢を強める
ゴムで発生した小さなデモ(憲法の制定・三権分立・言論の自由・警察暴力の根絶などの12か条の要求を掲げる)を弾圧
⇒このデモを契機にデモが全国化・大規模化
1979年9月帝都テヘランでの黒い金曜日事件で犠牲者多数
⇒「王朝打倒」を叫び始める(デモが革命へと転化)
⇒パブレヴィ―二世がエジプトへ亡命したのと入れ替わりにパリからホメイニ師が帰国
アメリカ政府と一触即発の状況でパフレヴィー二世がアメリカへ亡命
イランはアメリカにパフレヴィー二世の引き渡しを要求するがアメリカは拒否
⇒激昂した者たちによってイランアメリカ大使館が占拠され、大使館員などを人質としてパフレヴィ―二世の引き渡しを要求
⇒外交交渉は暗礁に乗り上げる
1980年アメリカ大統領に再選したいジミー・カーターが人質救出作戦を決行(イーグルクロウ作戦)
⇒当時創設されたばかりの極秘精鋭特殊部隊「デルタフォース」を投入
(ホワイトハウスはデルタフォースの存在を認めていないが)
⇒エンジントラブルや自軍機同士の衝突など大失敗。救出はできず
この失敗でカーターは再選できずロナルド・レーガンが大統領に
⇒この間にパフレヴィー二世が死去 イランアメリカ大使館は解放された
イラン革命の成功により国際外交のパワーバランスが崩れる
イラクでは小数(約30%)のスンニ派が多数(約65%)のシーア派を支配する構造
(全世界ではスンニ派が90%、シーア派が10%。イラクのようにシーア派が多数を占める国は、イラン、アゼルバイジャン、バーレーンくらい)
恐怖政治・独裁体制での支配、政府はシーア派の反乱をおそれていた
⇒イラン革命を目の当たりにし、当時のイラクの大統領サッダーム・フセインはイランとの戦争を画策
戦争をすることで国内の結束を図り、またシーア派戦力に対する威圧にもなる
開戦すればアメリカは味方に付いてくれるだろうし、「アラブ人VSイラン人」の構図に持っていくことでアラブ諸国も支持してくれるだろう
戦争の口実としては長年の国境問題を引き合いに出した
1980年9月イラク空軍がイランの重要拠点を奇襲
⇒敵基地施設の破壊には成功したもののイラン空軍機の破壊には失敗
⇒イランに反撃のチャンスを作ってしまい、革命の影響で内乱状態だったイラン国内が結束。
またアメリカは心情的にはイラク支持であったが、第二次冷戦がはじまったため表立って支援はせず(イラクとの国交正常化や武器支援などの間接的な支援はした)
アラブ諸国も支援には消極的であった
戦争を終わらせる要因が生まれなかったためイラン・イラク戦争(第一次湾岸戦争)は以後8年続いた
仲介できる立場の国連常任理事国をはじめとする主要国が競って両国に武器を輸出し「死の商人」として荒稼ぎ。新兵器の実験場と化していた。
1985年イラクはイランにおける制空権を確保すべく無差別撃墜宣言を出す
⇒48時間後以降イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機・民間機を問わずに無差別に撃墜すると発表
⇒在斯邦人が取り残されるが、トルコ政府が救出をしてくれた
⇒100年前のエルトゥールル号の恩返し
1986年 イラン・コントラ事件:アメリカがイラン・イラクの領国に武器輸出していたことが発覚
⇒財政再建のために石油収入を増やすしかない
原油生産の急激な増産は望めないうえ、その場合原油単価の下落を招く恐れあり
⇒石油収入のアップのためには石油減産が必要だが、イラクのみでは実行不可能
⇒OPEC(イラン・イラク・クウェート・サウジアラビア・カタール・UAEなど13か国が加盟している石油カルテル)の協力が必要
OPECに原油減産をもとめたところサウジアラビア・UAE・クウェートなどが反対
これら反対国はいずれも親米で背後にアメリカの意向が反映されていた
イラクは反対するサウジアラビア・UAE・クウェートといった親米アラブ諸国に怒り心頭
クウェートは原油増産を続け、さらにはクウェート領内からイラク領内に向かって掘削を行いイラク領内最大の油田であるルマイラ油田へとパイプを伸ばし、原油を盗んで売り出していた。
もともとクウェートはイラク領であり、イギリスが中東支配の橋頭保にするためにイラクから切り離して作った国であった。
当時イラクは軍拡を進めており、フセインはクウェート併合を決意
1990年8月フセイン大統領は軍事行動を開始
⇒クウェートはわずか9時間で制圧され、その6日後に併合宣言が発せられた。
第二次世界大戦後、主権国家が併合された初めての事例であり、国連安保理事会もイラクに即時撤退を求める
1991年1月 「多国籍軍」と名乗る実施アメリカ軍が砂漠の嵐作戦と称してイラクに空爆を始める。湾岸戦争開戦
戦争を短期に終わらせたいアメリカの思惑とは裏腹にフセインの捜索は難航
⇒イラクが故意にペルシア湾に重油を流し、環境テロを行っているとねつ造し報道
⇒イラクの完敗に終わり、イラクには莫大な賠償請求が課せられた
⇒のちの9.11アメリカ同時多発テロやその後のイラク戦争につながる
このころのアフガニスタン
1973年 18世紀以来アフガニスタンを支配してきたドゥッラーニー王朝が王族ムハンマド・ダーヴード陸軍中将の軍事政変によって滅亡し、王国から共和国になっていた
⇒社会主義政党「人民民主党」による政変で共和国はあっけなく滅亡し、今度はタラキーを首班とする「人民共和国」になる
⇒事実上ソ連の傀儡政権であったが、「宗教は麻薬」と断ずる社会主義とイスラームは水と油
⇒不満が鬱積しアフガニスタンの情勢不安は高まる一方であった
ここで、イラン革命がおきる
⇒アフガニスタンの不穏分子がムジャーヒディーン(聖戦を遂行する者たち)と称して各地で反乱、国内は無秩序状態になる
政府内では与党内の権力闘争から政変が起こり、タラキー政権(親ソ派)は倒れ、アミーン政権(中立主義)に交代
⇒混乱の鎮静化のため、アミーンはアメリカに接近する姿勢を見せる
ソ連はアミーン政権を倒し、ふたたびアフガニスタンをソ連の傀儡政権にすべく、軍事介入を決意(アフガニスタン侵攻)⇒第二次冷戦突入へ
⇒アフガン・ゲリラの士気は高く、イスラーム各国から義勇軍、パキスタンが兵站支援、中国やアメリカが武器や資金の援助など
・第二次世界大戦の勝利体験(独ソ戦)から、大戦時と同じ戦法で戦おうとして敗れた
・10年以上の泥沼化
・超大国が小国に負けた
・多大な戦費を費やして財政が破綻
⇒ヴェトナム戦争の再現のようなもの
ソ連はこのアフガニスタン侵攻によって国際的威信を低下させることになり、滅亡の遠因に
1989年ソ連軍はアフガンスタンから撤退
⇒アフガニスタン国内は人口の半分をパシュトゥーン人(アフガン系・スンニ派)を中心として、ハザーラ人(イラン系・シーア派)、タジーク人(イラン系・スンニ派)、ウズベク人(トルコ系・スンニ派)と民族と宗教が複雑に対立
さらにムジャーヒディーンの残党により治安が悪化、内乱状態へ突入
⇒パキスタンはこの内乱に乗じてアフガニスタンに自国の傀儡政権作ろうともくろむ
パキスタンはパシュトゥーン人の難民を神学校(マドラサ)にいれ、偏狭で過激な教えを徹底的にたたき込む洗脳教育を施した
⇒「戦死すればかならず楽園に行ける」と命知らずの尖兵(ターリバーン)を育成
⇒内乱状態のアフガニスタンに侵攻、パシュトゥーン人地域を制圧
厳格なイスラーム戒律を強調し、すべての娯楽を禁じ、女性差別政策を断行。
⇒住民は辟易しながらも「内戦状態よりはマシ」とターリバーン政権を消極的ながら支持
北方に追いやられたウズベク人・ハザーラ人・タジーク人は「北部同盟」を結成しターリバーンに抵抗をつづけた
ソ連軍アフガニスタン侵攻の際、イスラーム諸国からの義勇兵のなかにウサマ・ビン・ラディーンがいた。
ソ連撤兵後はサウジアラビアに戻っていたが、湾岸戦争の際さサウジアラビアは親米のため、イラク戦争の最前線基地として多国籍軍を受け容れ
⇒サウジアラビアはイスラームの発祥の地であり異教徒を排除する国柄
⇒ウサマ・ビン・ラディーンは多国籍軍を受け容れた国王を非難したが、国籍をはく奪され国外追放処分
⇒アフガニスタンへ戻り、同志ムジャーヒディーンたちと糾合し「アルカイーダ」をつくる
アルカイーダはターリバーン政権に庇護してもらう代わりにターリバーン政権に資金提供
⇒1993年世界貿易センタービルを爆破、1996年サウジアラビアの米軍基地を爆破、1998年にはケニア・タンザニアのアメリカ大使館を同時爆破など次々とテロを実行
⇒アメリカはターリバーン・アルカイーダ問題に行き詰り、戦争での解決を決意したとき「9.11アメリカ同時多発テロ」が勃発
⇒これを口実として対テロ戦争へ
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 大和書房