戦争と革命の世界史
第一章 今、世界はどうなっているのか
21世紀は自爆テロとともに始まった
ブッシュ政権の対応はすばやいものであった。事件の三日後 政府見解を発表
「ハイジャック犯は全部で19名。犯行はアルカイーダによるもので、首謀者はその指導者ビン・ラディーン。犯行の予見はまったく不可能であった。」
⇒この政府見解に各方面から疑念
―犯行の予見は本当に不可能だったのか
―そもそもホワイトハウスはあらかじめこのテロを察知していたにもかかわらず、これを黙殺したのではないか
―このテロ事件全体がホワイトハウスの自作自演ではないか
⇒一笑に付すほど荒唐無稽なものではない。歴史を紐解けばアメリカはこうした前科が一度や二度ではない
ねつ造から始まったヴェトナム戦争
(第一次ヴェトナム戦争・別名インドシナ戦争(1946-1954年)、第二次ヴェトナム戦争(1960-1975年))
太平洋戦争のころまでフランスの植民地だった
⇒戦後独立に立ちあがり(第一次ヴェトナム戦争・別名インドシナ戦争)、1954年フラン。スをたたき出すことに成功
⇒当時は米ソ冷戦の真っ只中。このまま座視していればヴェトナムはソ連陣営に組み込まれる
⇒どうしても西側陣営に組み込みたいアメリカが介入してくる
⇒ヴェトナム戦争勃発
アメリカははじめ呉延琰(ゴディンジェム)を傀儡として間接的なヴェトナム支配を画策
⇒らちが明かないため1965年に直接軍事介入を開始(北爆)
・この戦争でアメカ軍がヴェトナムに落とした爆弾の火薬量はWWIIで全世界の国々が使用した火薬量の2.7倍
・北爆と並行して8万5000キロリットルの枯葉剤を散布(枯葉作戦)
⇒たくさんの奇形児が生まれるなど戦後も長くヴェトナムを苦しめる
しkし、そもそもヴェトナム独立問題にアメリカは直接的な関係はない
本格的軍事介入のためには相応の口実が必要だが、ない
口実を作るため、1964年8月2日、アメリカ駆逐艦を北ヴェトナム海域に侵入させ、北ヴェトナム群と小競り合いを発生させる(第一次トンキン湾事件)。
⇒被害は小さく、これでは弱いと判断
⇒二日後に「攻撃を受けた」(第二次トンキン湾事件)と世論を煽り、北爆を開始。
⇒しかし第二次トンキン湾事件は全くのねつ造ということがすぐに暴露される。
アメリカ政府が開戦を望んだ時の、伝統的な行動パターン
①まず、国民が納得するような戦争口実を探す。適当な口実が見つからなければ、徴発、因縁、誘導、ねつ造などあらゆる裏工作を講じる。
②こうして作り上げた戦争口実をもとに「リメンバー◎◎」とスローガンを加賀げ手国民を煽り、「正義VS悪」という構図をつくって国際世論を味方につける。
③開戦
アメリカの巧妙なプロバガンダはある重要な真実から大衆の眼を逸らす
「今目の前で起こっていることはすべて、悠久の歴史的出来事を背景として生まれたものであって、たったいま突発的に発生したものではない」
⇒アメリカに対してこのような凄惨なテロを引き起こすにはそれ相応の理由がある
⇒次章解説
9.11後のアメリカ
事件の翌日ブッシュ大統領が演説「もはやこれはテロなどというものではない。戦争行為そのものだ」
⇒アメリカ世論はマスコミに煽られ、リメンバー9.11と叫び始める
⇒世界世論を一斉にこれに同調
9.11を口実としてアメリカは次々と中東に戦争を仕掛ける「対テロ戦争」
アメリカ政府は直ちにアフガニスタンにビン・ラディーンの引き渡しを要求
⇒当時のアフガニスタンは内戦状態、その大半を制していたターリバーン政権は「彼が主犯だという証拠があれば引き渡す。証拠がない現段階では引き渡すことはできない」
⇒じつはアルカイーダの犯行と断定し、全世界に公表までしていたが確たる証拠は持ち合わせていなかった。
⇒しかし米英を中心とした有志連合軍は「無限の正義作戦(のちに普及の自由作戦と改称)」と銘打って戦争を仕掛ける(アフガニスタン戦争・2001年10月7日)
⇒アメリカの素早い行動と圧倒的軍事力によってターリバーン政権はひと月と保たずに崩壊
アフガニスタン戦争後、2002年1月ブッシュ大統領は一般教書演説で北朝鮮・イラン・イラクの三国を悪の枢軸とまくしたてる
⇒イラクは湾岸戦争後の停戦決議で大量破壊兵器(核兵器を筆頭に、生物兵器。化学兵器、放射能兵器の改称)の不保持とその査察が義務浸けられていたが、1998年ごろからこれを拒絶し始めていた
⇒イラクが大量破壊兵器を開発している確かな証拠はなかったが、これを機にイラクを打倒し、親米政権を打ち立てようと考えた
⇒開戦のため国連の支持をとりつけようとするが1年間にわたる熾烈な攻防戦
開戦派 アメリカ イギリス
反戦派 フランス ロシア 中国
その間、アメリカの本気度に焦りを覚えたイラクは全面査察を受け容れるなど大幅に譲歩
⇒にもかかわらず、アメリカは有志連合を結成し、開戦する方向へ
2003年3月19日
CIAがフセイン大統領はバグダートのドーラ農場に潜伏しているとの情報をつかむ
⇒19日の早朝、先生布告をせず奇襲攻撃を仕掛ける
⇒CIAがつかんだ情報はガセであり、民間人が犠牲に
有志連合軍26万人を率いたアメリカを前にイラクは一か月ほどで解体
『悪の枢軸』『テロ支援国家(リビア・スーダン・シリア・イラン・北朝鮮・キューバ)』とアメリカに名指しされていた国は旋律
特に動揺が激しかったのはリビア
⇒1980年代以来、核開発を行いアメリカと確執があった
⇒狼狽したリビアのカダフィ大佐はすぐにアメリカとの交渉の場につき、核兵器の開発をみとめ、これを断念することを受け容れる。
イラン:核兵器開発の中断・ヒズボラ(レバノン)やハマス(パレスティナ)との関係改善など、国際的孤立からの脱却を図ろうとする
⇒アメリカはこの対応を弱腰外交とみて対イラン制裁を強化しようとする失態
⇒アメリカの強硬姿勢に、イランや北朝鮮も態度を硬化させ、再び対立姿勢
⇒アメリカの中東政策は暗礁に乗り上げる
引用参考文献
神野 正史(2016).戦争と革命の世界史 大和書房
「正しい政策」がないならどうすべきか 健康に関する内容についての備忘録
第6章健康
「正しい政策」がないならどうすべきか 犯罪と刑罰に関する内容の備忘録
第五章犯罪と刑罰
犯罪の何がそんなに悪いのか
犯罪の持つ強制技術的な側面⇒頑丈な鍵の必要性があったから精密工学が発達した(マルクス)
福祉に関する幸福理論によれば、犯罪が悪いのはそれが人々を不幸にさせるから
⇒なぜ犯罪が人々をそれほど不幸にするのか?
犯罪への恐怖とは、犯罪によって生ずる平均的に予測される客観的な影響についての恐怖と同一ではない
「犯罪のどれをとっても、あらゆる人の胸の中心において、人あるいは財産に対する無限の損害の恐怖、そして生命そのものの破壊への恐怖を呼び起こし、生かし続けておくのに十分である。この無限の損害への恐怖。これに比べれば、各々の事件で実際に生ずる被害の害悪を合計したものも、ほとんどとるに足らない」(ベンサム)
ベンサムの2つの重要な指摘
①犯罪には極めて多様な性質のものがあり、様々な種類の犯罪に対するわれわれの心理的な反応もまた様々なものになりうるということ
②こうした犯罪がもたらす恐怖の合計は、犯罪がもたらす損害の合計よりも多いだろう
ということ
イギリス内務省の犯罪部網における職務綱領「犯罪を減らす、そして犯罪への恐怖を減らす」
⇒犯罪への恐怖が、犯罪そのものよりも深い影響を人々の生活に与えうるという認識に基づいている
また 犯罪を減らす一つの方法は 、人々がより強く警戒することだという考えにも基づいている
不安が問題になる2つの理由
①不安はそれ自体として不快である
②不安は極めて望ましくない帰結をさらに招来しうる
われわれはいったいなぜそれほど犯罪を恐れるのか
「無限の損害」
⇒自分が制御できない、あるいは影響を及ぼせないほどまでに混乱して悪化する状況を回避しようとする意識
ある人があなたを犯罪のターゲットとして目をつけることにより、極めて不愉快な形であなたを扱う。⇒尊厳の欠如あるいは侮辱を示す(ルソー)
他人からの侮辱を恐れるがゆえに犯罪恐れる?⇒核心ではない
⇒未遂に犯罪の被害者になることと実際の犯罪の被害者になることの違い
羽座に被害者にされた場合、人は自分が自らの運命の支配者であるという感覚を失う
われわれはなぜ人を投獄するのか
刑罰の正当性に関わる3つ主要な刑罰理論
①抑止:ほかの人が同じ行為をしないように防止するため
②更生:犯罪者を模範的市民に矯正するため
③応報:懲罰としての純粋な刑罰を加えるため
第四の理論「無害化理論」:犯罪者に対処するのに耐えかねて、そうしなくてもすむように投獄するという考え方。
第五の理論:刑罰とは本質的には特殊なコミュニケーション行為の一種であるという考え方
抑止理論は人間の行動に関する経済的モデルを前提にしている。
ある行為をするのに一定のコストをともなう蓋然性がある場合、そのコストが高ければ高いほど、またその蓋然性が高ければ高いほど、その行動はより魅力的でなくなるという考え
抑止理論の根底には、罪を犯すかもしれない人が
行おうとする犯罪行為について若干の費用便益分析を行い、もし潜在的なコストないしリスクが大きければ、それをやめるだろうという想定がある
応報理論は、犯罪者は罰に値するがゆえに罰せられなければならないという考えに依拠
「同害復讐法」と関連
リベラルな人々は応報を極めて不愉快なものとして考える
⇒社会が応報を求めるからという理由だけである人を投獄するのは野蛮
もし刑罰が将来に何の目的も果たさないなら何の意味もない
刑罰は当事者間の立場をリバランスさせる
⇒被害者の立場を引き上げ、加害者の立場を引き下げる
なぜ人々が罪を犯すのかを理解しない限り、量刑政策の変更が犯罪率の変化に結び付くかどうかはわからない
行動の帰結を計算するという経済的モデルが、個々人の動機として本当に当てはまるのか
人々が法に対して持ち得る2つの異なった態度(ハート)
①「内的」態度:自分の国の法律に賛同し、それをある意味で「自分のもの」だと考えている人たちによってとられる態度。法律を自分の行動に対する絶対な拘束とみなす。
法律を守るべきかどうかを比較衡量したりせず、法を守る利益の方が違反する利益にまさると初めから判断している
「純粋な内的態度」:どんな場合でも法律を犯さない
「純粋でない内的態度」:費用便益計算の結果がどうなるかがすでにわかっているため、費用便益分析をする意味を行わない。
⇒まともな生活を送っている人にとって前科というコストは圧倒的なものであり、どんな利益もそのコストを上回らないことは明確
②「外的」態度:法律を自分のしようとする行動に対してついてくるコスト、あるいは少なくともリスク(危険因子)とみなす態度
法律を破ることにともなうリスクが高ければ高いほどそれをより守るようになる
さらに別の類型
「無秩序(支離滅裂)な」態度:衝動や怒り、傲慢に基づいて行動し、その結果をほとんど考慮しない、劇場による犯罪。
法を破ることに快感や満足を覚える「反権威主義者」。
刑罰の厳格化は彼らのスリルを増させるだけ
量刑政策を変更することによって犯罪が抑止されうるのは外的態度を持つ人々についてである。
犯罪者が他の集団に比べて著しく多い集団は10代及び20代前半の男性
⇒人は年を取るにつれ犯罪から抜け出す
⇒多くの人は年を取るにつれ、純粋な形ではないにしても内的態度をとるようになる
失うものが多くできたために、行おうとする犯罪についての費用便益計算をし、犯罪がコストに見合わないことを知る
目を引く3つの調査結果
①犯罪を起こす可能性のある人が、犯罪発見率が上がっていると思えば、罪は減る
②刑期を長くすることはほとんど何の抑止効果をもたない
③ある人の社会的関係が広ければ広いほど、その人は犯罪を起こす可能性が低い
⇒ある人の人生にもたらす前科のインパクトが犯罪の削減にとって最も大事
犯罪を減らす最良の方法「すべての人に社会における役目を与える」こと
⇒自らが社会の一員だと感じられるようにすること。前科それ自体が極めて不利になるような状況へと人々の境遇を変えていくこと
刑罰にたいする様々なアプローチの区別
①「将来志向」:将来において達成できることの観点から刑罰の目的をみる
⇒抑止、矯正、無害化理論はこの性格を持っている
②「過去志向」:刑罰により生じうる効果というよりは、過去に起きたことに着目する
犯罪をより功罪の観点からみるもの
⇒応報理論はこの性格をもっている
人間の幸福に関して哲学的に議論しようとすれば、それほど多くの悲惨をもたらす犯罪とはいったい何なのか
何が人間の生活を良い、あるいは悪いものにするのか
①善き生とは幸福ないし満足感に充たされた生活である
②善き生とは所得や財産の面で資源に恵まれ、高い生活水準を可能にする生活である
⇒資源に恵まれたとしても耐えがたいような生活もありうるし、資源に乏しくても幸せな生活はありうる
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房
「正しい政策」がないならどうすべきか 安全性に関する内容の備忘録
第四章安全性
安全性に関する規制を設ける妥当な理由
①消費者保護のため
⇒一般的に商品の売り手は書いてよりも多くの知識を持っている。(情報の非対称性)
売る商品の質について売りては買い手にやや恣意的な情報を与えることも可能。
⇒例:食品安全基準が設けられる前の19世紀イギリス 一口飲む度のどが渇くような塩を混ぜたビールやチョークの粉によって膨らませたパン
情報不足は搾取、そして結果的に危害につながる
消費者の知識不足を補うための保護の方法
①きわめて重い危害や市のリスクをもたらす商品の販売を禁止する
②消費者の知識を向上させる⇒食品表示制度
もし人々がすべての関連情報を得られたとしても合理的な判断をできるという期待は持てない(パターナリズム一形態)
安全性は個人の自由な選択にゆだねられるという考えは、選択肢が一つの時には通用しない
⇒独占市場が存在するところでは安全レベルもまた独占されている。
政府が最低限の安全基準を設けることは全く正当⇒そうした基準はどのように決められるべきなのか
鉄道安全基準委員会:2001年重大な事故が多発し鉄道会社の評価は最悪の不振に陥った
⇒多くの人は十年前に行われた鉄道民営化による結果だと考えた
⇒ある調査論文の1つは異なったとらえ方
鉄道交通は統計的に見ると重大な衝突事故を含めた場合でも極めて安全
最近のいくつかのあたらしい鉄道安全対策のために使われた費用は最低限の基準をはるかに上回っていた
⇒これ以上の安全システムの導入はわずかな改善のために莫大なお金を費やすことになる
このディレンマは二つの道徳的観点の対立としてみることができる
1つ目の観点「帰結主義的」な道徳的視点
われわれは鉄道の安全性の向上にさらに費用をかけるのではなく、実行可能な手段によってより多くの命を救える方法を探すべきだ
⇒今ある手段を用いて最大の全を実現するように方向づける考え方
功利主義:伝統的で宗教的な道徳に対する、人道的で啓蒙的なオルタナティブ
伝統的で宗教的な道徳による正しい行為⇒人間が常に行ってきたことか、神により命ぜられたこと
ベンサムとミルは伝統的な道徳学説がもたらす服従と抑圧の道を放棄
⇒もしある方策がすべてを考慮したうえで人間にとって膳出ないのならそれは道徳的に要請されないという考え方を示す<人間の解放を目指す学説>
功利主義の問題点:道徳を人間の幸福に基礎づけているのではなく、幸福の合計を最大化するという観点から正しい行動を定義している点
⇒多数の人々の小さな利益のために、少数の人の大きな犠牲が要求される
1年に一人かを救うために新システムを導入⇒払う税金が増える(一人当たりでは小さな損失に過ぎないが何百万人の人のお金を減らすなら全治の紅葉の損失はかなりのものになる)
より大きな善のために少数の人々を犠牲にしなければいけない場合がある
功利主義的な推論を何らかの領域に適用するためのステップ
①取りうる行動についての潜在的なコストとベネフィットのリストを作る
②それがどれだけの幸福ないし効用、あるいはその逆の不幸ないし不利益をもたらすかを評価する
⇒どのようにして人間の幸福に意味のある数字をつけることができるのか(個人間の紅葉の比較)
2つ目の観点
「絶対主義的」な道徳的視点(義務論あるいは義務に基づく推論)
絶対主義的な理論類型の背後にある基本的な考え方:道徳というものは少なくとも通常の状況においては、帰結に関する考慮を上回る何らかの根本法則を設ける
命にどれだけの値をつけられるか
一人の命を救う値段「死亡回避価値」(イギリス140万ポンド、アメリカ600万ドル)
小さなリスクを減らすために我々が実際にお金を払っていることに気づくことの2つの意義
①安全性に支払いをすること、安全性に値段をつけることが実際には日常生活の一部であることに気づかせてくれる点
②我々の支払いの額の合計を何らかの形で用いることによって安全規制における統計的生命価値を示すことができるかもしれないという点
生命の統計的価値をどう計算するか
30年前:失われた経済的貢献の可能性をもとにその価値を算出
⇒人間は「人的資本」、すなわち得られる可能性のあった収入の源泉とみなされた
経済への貢献可能性が大きければ大きいほど、その人の価値は大きい
現在:「人的資本」アプローチに代わり「支払意思額」モデルを採用
⇒人々がするであろう、あるいは実際にする購入の決定に着目して生命の価値を算出
人々が現に行う支払からは顕示選好という方法が導き出され、人々が行うであろう支払からは表明選好という方法が導き出される
顕示選好:人々はどのような安全機器のためにお金を使うのか、危険な仕事をする見返りとしてどのくらい追加賃金を要求するのかという実際の市場での行動に着目
利点:実際の市場行動に着目する
欠点::しばしばこの方法が人々のもつ根底的な態度をその行動から導き出そうという試みに近くなってしまう
⇒「心的な全体論」:人々の行動を説明する際に欲求と信念がともに役割を果たすことを前提にすれば、もし行動を取り巻く信念が順応できるなら、あらゆる行動はあらゆる欲求と合致していることになるという論
①ある危険な製品を安全であると信じて買ってしまう人もいるかもしれない。その人のリスクに対する態度についてはわからない
②ある行動が単一の目的のためにとられることはあまりない。安全なほうの車を買ったからといってリスクを削減するために追加料金を支払ったということを示すわけではない(外観や色を気に入った可能性)
表明選好:純粋に仮説的な「支払意思」モデルを用いるもので、通常は仮想評価と呼ばれる
利点:①実験者は、被験者が購入を選択する際に安全性という要素のみに集中できるような形で質問を設定することができる
②ある任意の被験者に理論上いくつもの質問を行うことができるため、極めて多くのデータを得ることができる
制約:①フレーミングの問題
リスクを避けるためにある特定の金額を支払うといった人が、事故が起きた場合補償としてさらに多くの金額を要求するのが一般的
多くの意思決定理論の予測によれば、支払意思額と補償受取意思額は一致するはずであるが実際には違いがある
②仮想評価をする際に実際にお金が手元にないのであれば、われわれは示された金額をどう真剣に受け止めることができるのか確信が持てないという点
③人間は可能性が極めて低い事柄について合理的に意思決定をするのが極めて苦手だという点
事故が起きたとき、すべての当事者は「誰に、あるいは何に責任があるのか」、さらに「誰が悪いのか」ということに強い関心を抱く
⇒「非難されるべきものの追跡記録」を明らかにするためにエネルギーが費やされる
責任が会社の内部(直接的に関心を持つべきもの)にあるか外部(あまり関心を)払わなくてもよいものにあるか
ある事故の原因がより会社の道徳的過失であればあるほど会社はより絶対主義的な態度で、同種の事件を予防すべきという原理
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房
「正しい政策」がないならどうすべきか ドラッグに関する内容の備忘録
第三章ドラッグ
先進国社会の法律は、快楽や気晴らし用のドラッグの製造、供給、所持及び使用を規制している。
多くの自由主義者は個人の行動に自由に干渉できる唯一の正当性は他人に対する危害の防止だけである。
⇒しかし。現在違法扱いになっている多くの薬物を使用することによって生ずる第三者に対する顕著な危害を見出すことは極めて難しい。
現在異本扱いになっているドラッグのいくつかはアルコールやたばこよりも使用者本人と第三者に対する危害がはるかに小さい(例:MDMA、大麻、LSD)
大麻の服用と何らかの精神疾患との関連はよく指摘されてきたが、なお論争中。
アメリカ:ドラッグのない社会の実現を表明
ドラッグの使用者と販売者に厳しい刑罰を科したり、ドラッグの供給網を断ち切る対策
ドラッグ無き社会を目指そうという政策⇒あらゆるドラッグが等しく悪であり、排除されるべきものとして扱わなければならない。
このような無差別なアプローチをとった場合、ドラッグに関連した危害が増える可能性
(例:ヘロインの所持とエクスタシーの所持が法律において同等の重さで扱われており、かつヘロインの方が入手しやすい状況の場合、ヘロインに手を出す人が増える可能性)
ドラッグ無き社会という目標に明確に代わるべきなのは ドラッグによる害悪を最小化するという目標である。
⇒この考えによるとあるドラッグは別のドラッグよりもソフトなものとして取り扱われ、最もハードなドラッグの使用を減らすことが規制の主たる目的になる。
ドラッグの使用を公衆衛生の問題として捉えることは、多くの人はそれを賢明な政策とみるだろうが、個人の自由に対する侵害である。(トマス・サス)
薬物規制に対する極めて厳格な一つのアプローチは自己所有権というリバタリアン的原理である。
人は自分の体のなかに入れたいものは何でも服用する権利がある。しかし、自己所有権だからといって、他人に何らかの害悪を加えることは許されない
リバタリアン的、自由市場的な主張の背景にある別の前提は、現在の規制が少なくとも一定程度は失敗しているという認識である。つまり、現在の政策が、抑止効果を完全に発揮しているとは到底言えないという認識である。
また以下の3つの問題についても考慮すべきである。
①少数であっても逮捕され訴追された人々を投獄することが個人と社会にもたらすコストがある。
②闇市場が存在することによるコストがある。
③野放図な薬物供給に起因する過剰摂取と中毒の問題がある。
これらを考慮すればすべてのドラッグの製造と供給を合法化するほうがはるかに望ましいと論じられることがある。さらに、その場合には政府は極めて高い税金を課して、税収を増やすことができるとも論じられる。
薬物を合法化することによってその害悪を減らすことができるという考えにはさまざまな問題がある。
①闇市場を排除するためには有効な方策だとしても、それが犯罪全体にどう影響を与えるかはわからない。
②新たに合法化されたドラッグの価格はいくらになるのか
もし課税を通じて値段が高く維持されるならば、違法な闇市場で合法的な市場よりも安い価格で薬物が売られるような状況が生じてしまう
③危険な犯罪のリスクを高めるかもしれない
ドラッグが合法化されることによって、問題状況が変わってしまうということは明確だが、問題が解決されるより増えてしまうのかどうかは全く予測ができない。
多くの人がアルコールによってそうするのと同じようにドラッグによって快感を得ているという事実は否定しがたい。ドラッグは使用者自身に何の恩恵ももたらさず第三者に多大な危害を及ぼすから禁止できるという議論は極めて通りにくい。
ドラッグの使用に反対する別の論法は ドラッグは本物でない経験をもたらすというものだ。ドラッグの使用者は快楽を感じるが。その快楽を獲得するために何かをしたわけではない。それはむしろ現実世界からの逃避だ。
⇒これはほかの多くの合法的な体験にも共通することである(例:アクション映画を見に行く)
⇒このことはドラッグを使用しないことの理由にはなっても、ドラッグを禁止すべき理由にはなりえない
ドラッグが一般的に作用する仕方それ自体が道徳的非難の根拠になると論ずる人もいる
脳の中の「応報」というシステム:個人の生存や再生産にとって有益な行動には肯定的な強化反応が与えられる。しかし、これと逆の効果を持つ行為には否定的な反応が与えられる。
ドラッグはこのシステムから基本的に外れるもので、通常の原因なしに報酬が与えられる。⇒道徳的懸念
もしドラッグの服用が人間の幸福にとって何の悪影響も与えないのであれば、この「生物学的」議論には何の道徳的意味もなくなる。
⇒問題になるのは生物的メカニズムではなく、薬物使用によって生ずる結果であり、とりわけ中毒である。
ドラッグの常習的な服用:健康に悪影響をもたらし、人生の様々な側面に対する関心を吸い上げる。家族、友人、仕事やその他の利害、社会的関係性などの無視につながる。
「これだけ多くのドラッグ使用者が投獄されている中で、ドラッグを禁止し続けることは、20世紀におけるわれわれの刑事法システムが犯す最大の不正義である。」(ダグラス・フサーク)
⇒ドラッグの使用によってしゅずる第三者への危害はあまりに誇張されており。現行の政策を正当化するものではない。むしろ、個人の権利を侵害するものである。
⇒大きな快楽をもたらし、目立った害悪をほとんど与えず、様々な合法的な活動と同じく他者に危害を加えないような行為を法的強制のメカニズムによって妨げようとすることは道徳的に擁護できない。
現状は長年の英知の積み重ねである(バーク)
現状は長年の偏見の積み重ねである(ミル)
変化を正当化することは現状維持を正当化することよりも難しい。変化は予期せぬ結果をもたらす。⇒「見知らぬ悪魔より知り合いの悪魔の方がまし」
現状維持に特権的地位を与える理由
①変化は不確実な結果をもたらす
②人々は現行の法律に基づいて期待を形成しているので変化させるためには正当性が必要であり、移行期間という問題にも対処せねばならない
政策が明確で首尾一貫した理由に基づいて導入されることは極めてまれ
⇒妥協やコンテクスト、プラグマティズムがいつも背景にある。
議論には「現状維持バイアス」があり、それにどれだけ哲学的な正当性が無いと思えようとも、政策において我々はそれを背負っている
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房
「正しい政策」がないならどうすべきか ギャンブルに関する内容の備忘録
第二章ギャンブル
2000年の初めにおいてインターネットがギャンブルのあり方を大きく変えようとしていたのに、適切な規制が無かった。
インターネット上の業者がイギリスの賭博税を回避するために税率の低い地域に移転し、より競争力があり利益の上がるサービスを提供するようになる
「ギャンブル制度再検討委員会」で対処すべきであった問題
①インターネットでのギャンブルへの対処
②政府の創設した国営宝くじが、他の業者に対して課したルールを自ら守っていないという疑いの対処
⇒商業的なギャンブル業者は広告を打てないのに、宝くじにはそのような規制がなかった
③許可当局はカジノを開設しようとする申請者に理由の説明なしで、また抗弁の機会を与えることなく申請を却下することができたが、このやり方は人権に関する法律と合致するのかという問題
「賭け事をする人は時間を無駄にしている、という反対論には道徳的あるいはおそらく美的な判断によるものである。あいにく、午後の時間を賭け店で過ごそうなどという考えに魅力を感じる人などいない。しかし、賭け店に通う人は自部なりに楽しみを得る方法を選んだのであり、我々は自由な社会において、庭を造ったり、子どもたちに本を読み聞かせたり、健康的なアウトドア・スポーツをしたりするほうがよい、とほかの人が考えているからという理由だけで、彼らが賭け事をするのを妨げることは間違いであると考える」(ギャンブルに関する王立委員会(ロスチャイルド委員会))
⇒政権を失った労働党政権によって委嘱されたものであり、新たに発足したサッチャーの保守党政権はこれに何の関心も払わなかったためこの報告書は無視された。
イギリス人はギャンブルに対してきわめて寛大。イギリスは子どものギャンブルが合法化されているきわめて数少ない国の1つ。(ただし、少額の賭け金と賞金で行われ、スロットマシーン、メダル落とし、クレーンゲームに限られる)
子どものギャンブル論争
擁護派:子どものギャンブルを禁止することは、イギリス流の海辺での休日を壊すことであり、現在のギャンブルはまったく無害な「ちょっとした楽しみにスパイス」を加えるものにすぎない
反対派:少額の賭け金と賞金によって、親の監督下に行われる子どものギャンブルを認めることは、食事の際に水で薄めたワインを子どもが飲むことを認める負担素を起源とされる習慣のようなものだ。
どちらの行いも大人としての責任ある行動を身につけさせるものだといわれるが、ギャンブルについてはそれを示す明確な確証はない。かつて家族にギャンブルを勧められたという経験はギャンブルに関する問題を引き起こすことになるリスク因子の1つでもある。
ギャンブルの倫理性についての論点
①ギャンブルは悪かどうか
②ギャンブルで利益を得ることは悪かどうか
③人にギャンブルを勧めるのは悪かどうか
①ギャンブルは悪かどうか
ギャンブルが単純に不道徳であるという理屈はあり得る。さらに国家には人々が不道徳な行為をするのを止める義務があると付け加える人もいる。
ギャンブルは悪であるにしても少なくとも他人に害悪が及ばない限りは国家は個人の道徳に干渉すべきではないと考えることもできる。
全く逆に、国家は人々が道徳的に悪い行為をするのを止めるべきだが、ギャンブルは悪でもないという立場もある。
第一の議論(道徳的に悪論)
多くの宗教はギャンブルを否定的に見ている
イスラム教:働かなくても金持ちになれることへの誘惑 というギャンブルのもつ基本的な誘惑が間違っている(利子つきの金貸しを禁止する根拠にもなっている)
コーランが述べるにはギャンブルは人々の間に対立をもたらし、祈りを忘れさせる
⇒ギャンブルがそれ自体として悪なのか、あるいはその結果についてのみ悪なのかは不明
リベラルな政治哲学の基本的な前提
政府は、特定の行動様式の道徳性に関する評価に基づいて鑑賞してはならない
国家は競合する善の諸構想に対して「中立的」でなければならない
国家は他人に危害を加えない限り、いかなる人の行動も禁止することはできない。
リベラルな国家はある行為がある人々によって、あるいは多数派によってさえ道徳的に否定されているからという理由だけで、ある行為を禁止することはできない
「文明社会のいかなる成員に対しても、その意志に反して、権力が正当に行使される唯一の目的は、他人に危害が及ぶのを防ぐことである」(ミル)
⇒ミルは国家にはある人が他人に及ぼすかもしれない危害の全てを防止する義務があると論じたわけではない。少なくともある人が他人に危害を及ぼしたり危険を与えたりする場合には、その問題は国家の関心事になると論じた。
ある行為が他人に影響を及ぼさない、「完全に自己にのみ関わる」なら、国家は介入してはならない。
自分の行動が自分自身にのみ関わるなら、それは国家とは無関係だ・
リベラルな立場によれば、もしある人のギャンブルが他人に危害を与えないならば、国家にはそれを禁止する権利はない
⇒これを受け入れたからといってギャンブルが完全に野放しにされていいということにはならない。
ギャンブルに課税したり、生活妨害を防ぐために一定区域にのみに開設を制限したり、営業時間を規制したりすることはできる。
ギャンブルを警告するポスター運動の展開、ギャンブル業者の宣伝権利の拒否、あるいは芸術音楽などの望ましいと考える活動の助成など、完全に何かを禁止したり要求はしなくても、ある行動を奨励し、ある行動を避けさせるようにしている
⇒こうした政策は危害を与えないあらゆる形の行動を認めるという点ではリベラリズムの要素をもちながら、反リベラリズムの要素ももっている。
リベラル派の主張:政府は将来の選択肢を多く残しておくために「文化保存」活動を行わなければならない。美術、音楽、文学といった活動を奨励し、将来の世代もそれに参加し享受できるようにすべきだ。
第二の議論(ギャンブラーへの危害論)
ギャンブルはギャンブラー自身に危害を与える。またギャンブルは他人、とくに家族に危害を与え、社会全体にさえも危害を与えうる
ギャンブルには中毒性があり、負け額を取り返そうと虚偽の理由をつけて借金をしたり、嘘をついたり、詐欺や盗みを犯したりするかもしれない
「ギャンブルが人間の性格を完全に破綻させるプロセスは二段階ある。第一に、賭け事はばくち打ちを、犯罪への誘惑が最も強くなるような不可避的状況に徐々にではなく突然に陥らせる。第二に、彼の行いには定見がなくなり、それによってあらゆる良き習慣が完全に根絶やしになり、その代わりに多くの悪しき習慣が植えつけられる」(ミル)
ギャンブル依存症患者は下降線をたどって仕事、家庭、家族を失うおそれがある。
ギャンブルは人々の生活を破綻させる危険性をもっている。
⇒この危険性論は、ギャンブルはそれ自体として道徳的に悪という議論とは全く異なる。
ギャンブルはそれ自体としては道徳的に悪ではないが、ギャンブラーmにきわめて破滅的な結果をもたらすことは往々にしてある。
つまりギャンブルは道徳的に悪であるかどうかとは無関係に有害である。ゆえに製粉介入は認められる、と主張される
これに対する有力な反論
根本的なリベラルな諸前提と対立する
ミルの公式見解:リベラリズムはパターナリズムとして知られるものは認めない。
パターナリズム:ある人が自分自身に危害を与えることを防ぐために政府などが介入すること(例:車に乗る際のシートベルト、ヘルメットの着用要求、禁煙。エイズに関する理解の向上、健康啓発活動)
しかし、それでもギャンブラーすべてが中毒になり、最終的に人生を台無しにするのだとすれば、ギャンブルは禁止または厳しく制限されるべきだというパターナリスティックな議論は極めて明快⇒政府の介入を正当化できる
しかし実際には、大多数の人は依存症的ギャンブラーではない。
⇒大多数の人々の楽しみは少数の人々の危害、あるいは危害のおそれとどう両立されるべきか。
ミルのリベラリズムを別の原理で補完する必要性
別の原理:少なくとも危害が本人の健康、安全性、経済的利益に及ぶ場合には、ある人が自分自身に危害を加えるのを政府が介入して止めることを認める原理。
第三の議論()
政府にとっての関心事は個人が自らに対して与える危害ではなく、他人に対して与える危害だ。
全ての時間とお金をギャンブルに費やす人は家族を無視し、家族や他人に窃盗を働き、だましさえするかもしれない。また子どもの養育を放棄するかもしれない。
さらにギャンブルによって困窮した人は国庫の負担となる。
⇒ギャンブル依存者は家族を傷つけ、納税者に負担をかける。
しかし、ギャンブルが他人にとって危険になると認めたとしても、ギャンブルを禁止すべきだということにはならない。もし、ギャンブルが禁止されるのであれば、自動車の運転も禁止されなければならない。
リスクのある行為を禁止すべきだという議論の際に考慮されるべき2つの要因
①危害の可能性と実際の危害の双方の観点からみてどれほど危険なのか
②それを禁止すれば、代わりに何が禁止されるのか
ミルの自由原理:ギャンブルに対する規制はすべて否定されることになる
⇒今日の政策的議論のなかでは受け入れられない立場。ミル自身もこの立場を直ちに否定
ギャンブルは容認されるが、それは依存症の習慣が生ずる可能性を減らすような条件の下でなければならない。
ギャンブルの機会を増やすとギャンブル依存症が増えるわけではない
1961年に賭博方が改正されたのはそれに効果が無かったから
⇒人々はギャンブルを行っていただけではなく、ギャンブルを禁止する法律を破ってもいた。⇒一般的な遵法精神が損なわれていく可能性
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房
「正しい政策」がないならどうすべきか 序論と動物実験に関する内容の備忘録
「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学
ジョナサン・ウルフ(著) 大澤津・原田健次朗(訳)
(1)序論
公共政策の場における討議と抽象的な道徳的議論の異なる点
①「不同意することに同意する」ための余地がほとんどない。
⇒なんであれ政策が求められる。
②現状維持を有利にするバイアスが不可避的に存在する。改革を主張するためのコストは自覚的あるいは無自覚的に現行制度の維持を主張するコストより高い。
⇒われわれは現在の状態から出発するということ
③ある道徳的見解が正しいあるいは説得的であるかどうかは、それが広く共有されているか、広く受容されているがどうかという問題に比べれば二の次である。
「判断の重荷」(ロールズ) 理性の自由な使用を前提にすれば、良心をもち合理的で。道徳的に思考する人々は、互いに異なる矛盾した判断を持つにいたるだろう。
⇒物事を進展させるための最良の方法は、より多くの人を一致した見解に引き入れ、人々がその政策を支持する理由は異なるにしても、政策が広く支持されるようにすること
重なりあうコンセンサス(ロールズ) ある公共政策を、異なった道徳的な前提に立ちつつも支持することは可能である。哲学的な相違がすべて、政策レベルの相違をもたらすわけはない。
(例)絶対的な道徳的条件を奉ずるカント主義者と苦痛に対する快楽の差し引きを最大化しようとする功利主義者
何の意味もないのに無実の人を殺すことは間違っているという点では意見が一致
古来の知恵という考えには一定の理がある。
他方で古来からの偏見もまた存在する(ミル)
第一章 動物実験
動物実験に対する道徳的態度 3つのグループ
①動物実験がもたらしてくれる科学的または医学的な利益は、すべてを考慮すれば、動物への危害よりも上回ると考える人々
②どちらの側にも反論しがたい議論があり、これは明確な解決のない真正の道徳的ディレンマだと結論する人々
③道徳的な考察に従えば、われわれが科学的調査のために動物を使うことは間違っていると感じる人々
イギリスでの動物実験に関わる主要な法律
動物科学実験手続法(1986年制定)「この法の下では、あらゆる生きている脊椎動物またある種のタコについて行われる、その動物に痛みや苦痛、苦悶、または持続的な損傷を与えるようないかなる科学的行為も、ライセンスを要する規制された行為である」
⇒研究の利益が動物に対する危害を上回り動物実験が必要とされる情報を得ることができる唯一の実行可能な方法である場合のみライセンスが与えられる。
「動物の解放」(ピーター・シンガー)
動物たちは人間と同じように痛みを感じることができるので、人間と同じ道徳的配慮をもって扱われるべきだ
動物実験の倫理に関する議論で、二つの個別だが混ざり合った問いが区別される必要がある。
①人間に関する発見をするために、動物実験は有用な方法なのか(科学的問題)
⇒動物で示されたモデルは役に立つのか
②動物実験は認められるべきであるか(道徳的問題)
たとえ動物実験が有効であったとしても、動物実験は認められるべきであるかという道徳的問題は解決しない
逆に、動物実験は役に立たないということが証明されてしまえば、それは動物実験は科学的に欠陥があるということのみならず、道徳的にも誤っているということを示すのに十分。
標準的なアプローチ―道徳的なコミュニティを定義する
人間についての何が、われわれを「道徳的な扱いを要求できるコミュニティーのメンバー」にするのかを定義し、そしてそのことが少なくとも何らかの動物についてもいえることであるかを探究する
⇒「人間であること」が決定的に道徳的な意味のある特徴である。
人間は動物よりも大事なのであるのは明らかであるという考え方と共鳴。
「種差別」
なぜ人間が道徳的に特別なのかを説明する、何らかの根本的な特徴はなにか
道徳哲学者たちによって提案された見込みある6つの候補
①感覚
②自律
③善の観念をもつこと
④発展開花する潜在能力
⑤社会性
⑥生命をもつこと
これらの特徴のうちいずれかが道徳的コミュニティのメンバーシップのための判断基準になりうるか。
領域的特徴(ロールズ)
あなたがそれをもつかもたないかでしかないような、白黒はっきりつくもの
「問題は彼らが話したり理性的に思考したりできるか、ではなく、彼らが苦痛を感じることができるかどうかである」(ベンサム)
◎この見方によれば、神経系をもつあらゆる生物は道徳的コミュニティのメンバ-である
◎きわめて機能の損なわれた神経系をもったり、永久に続く昏睡状態にあったりする少数の人々を道徳的コミュニティから排除してしまうという問題
もし人間が権利を持ち、人間とほかの感覚を持つ動物に道徳的な違いがないのであれば、そのような動物もまた権利をもたなくてはならないことになる
自律や意思または自由のようなものを道徳的コミュニティの加入条件となる特徴とするアプローチ(カント的伝統に基づく)
二つの帰結
①高いレベルの認知能力をもたない生き物たちが道徳的コミュニティから排除されてしまう
われわれは動物を、自分自身の道徳的な地位を汚すことのないよう、自己への関心から適切に扱うべきである(カント)
しかし、これは話をあべこべにしているだけ
もし、動物たちをひどく扱うこと自体が何らかの意味で間違っていないというなら、なぜ彼らをそのように扱うことがわれわれの人間性を損なうことになるのか全く明らかに出来ない
②赤ん坊や、深刻な学習障害を持つ大人、認知症を患う人々が道徳的コミュニティから排除されてしまうかもしれない
どの特徴が道徳的に意味があるのか問う問題⇔これらの特徴がどのように考慮されるべきか
動物たちは人間によって扱われる結果として長時間にわたる重度の痛みによって苦しめられてはならないという「準権利」をもっているといえるかもしれない
人間とほかの生物がみな生命をもっていて動物の生命は価値が無いとの扱いを受ける一方で人間の生命が尊重されているならその違いを説明する何らかの差別化のポイントが提示されなければならない
おそらく価値があるのは生命それ自体というよりは、これらの人生の計画やプロジェクトが連続すること
問題回避という方向でなされた先導的な提案
「3つのR」(ラッセルとバーチ)
改善(refinement):実験はできるだけ動物に対して危害が少なくなるように修正されるべき
減少(reduction):使用される動物の数の減少を要求
置き換え(replacement):動物を実験することによって追求される知識は、他の何らかの方法でも達成可能かもしれない
現代の公共政策上の論争
動物が権利を持つかどうか、すべての動物は平等かどうか、また動物たちの生物のどの特徴が道徳的に意味があるのかといったことについての論争ではなく、動物たちの道徳的に意味のある特徴がどのように人間による動物の取り扱いにおいて考慮されるべきかについての論争である
道徳的議論は人々の行動を変えるというよりは、自分がしていることに罪悪感を抱かせる力の方がずっと大きい。
引用参考文献
ジョナサン・ウルフ 大澤津・原田健二郎(訳)(2016).「正しい政策」がないなたどうすべきか 勁草書房